旧約時代はユダヤ人だけの時代という考えは間違いだ
主は聖なる山に基を置かれる。
主は、ヤコブのすべての住まいにまさって、シオンのもろもろの門を愛される。
神の都よ。あなたについては、すばらしいことが語られている。セラ
「わたしはラハブとバビロンをわたしを知っている者の数に入れよう。見よ。ペリシテとツロ、それにクシュもともに。これらをもここで生まれた者として。」
しかし、シオンについては、こう言われる。「だれもかれもが、ここで生まれた。」と。こうして、いと高き方ご自身がシオンを堅くお建てになる。
主が国々の民を登録されるとき、「この民はここで生まれた。」としるされる。セラ
踊りながら歌う者は、「私の泉はことごとく、あなたにある。」と言おう。 (詩篇87編)
神の都シオンは、聖なる山として、ヤコブのすべての住まいの中心にある。
ヤコブのすべての住まいでは、次のことが行われる。
「わたしはラハブとバビロンをわたしを知っている者の数に入れよう。見よ。ペリシテとツロ、それにクシュもともに。これらをもここで生まれた者として」
これは、KJVの訳のほうがよい。
I will make mention of Rahab and Babylon to them that know me: behold Philistia, and Tyre, with Ethiopia; this man was born there.
(私は、私を知る者たちにラハブとバビロンについて言及しよう。見よ、ペリシテとツロ、それにエチオピアも。「この人は、ここで生まれた」と。)
つまり、ヤコブの住まい、つまり、イスラエルでは、「ラハブとバビロン、ペリシテとツロ、それにエチオピア」も、そこで生まれたと。(1)
それに対して、神の都シオンでは、「だれもかれもが、ここで生まれた。」といわれる。(2)
(1)で挙げられている名前ラハブ、バビロン、ペリシテ、ツロ、エチオピアは、異邦人である。
ラハブとバビロンは、売春婦である。ただし、ラハブは信仰の人であったが。
ペリシテはイスラエルの敵。ツロは、サタンの象徴として挙げられる傲慢な町。エチオピアは、ソロモンを受け入れた異邦人。
これらは、イスラエルから見れば、異邦人、異形の人々、蔑視される人々である。
そのような人々でも神は、「ヤコブの住まい」で生まれた、つまり、あたかもイスラエル人であるかのように扱われる。
イスラエルの一般の住居地区でも、神は広く人々を受入れ給う。
(2)しかし、シオンという神の都、聖なる山では、神は「だれもかれもが、ここで生まれた。」と言われる。
普通、民族主義的ユダヤ人の感覚だと、(1)でも異常だ。彼らは異邦人を馬鹿にしている。だから、「おまえはここで生まれた」など口が裂けても言いたくない。
しかし、神は、(1)だけではなく、(2)も行われる。いや、(2)ではもっとそのようにされる。
つまり、一般の住居地区でも「寛大に異邦人を受け入れる」のに、神は「聖なる場所においてはもっと寛大に異邦人を受け入れる」ということ。
ここで、旧約聖書が、ユダヤ民族主義の書物ではないことが明らかになる。
旧約聖書は、万人の書物なのだ。
すべての民を寛大に受け入れる。
神は、神の聖なる都においては、「だれもかれも」みな、同国人だ、と宣言された。
我々は、旧約聖書をユダヤ人だけを愛する書物として見てしまいがちだが、実際に詳しく見るとそうではないことが分かる。
神は、旧約時代においても、万人を愛しておられた。
旧約時代はユダヤ人だけのため、新約時代は万人のため、というわけ方はできない。
旧約時代の経綸は、諸国民を救いに導くためのステップだったと考えるべきだ。
神は、ユダヤ人の救いを、諸国民の救いのステップとして位置づけておられる。
旧約時代はユダヤ人だけの時代という考えは間違いだ。
2010年8月25日
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