(1)
誤解のないように言っておく(誤解したい愚か者はどんなに言っても誤解するのでしょうがないのだが)。
「天照大神がキリストではないか」と私が言う意味は、次の主張では「ない」。
1.天照大神を崇拝してもよい。
2.神社に参拝に行ってもよい。
私は、天照大神崇拝を奨励しているのでも、神社参拝を奨励しているのでも「ない」。
なぜならば、今の神道において、天照大神も神社も、聖書に記されたイエス・キリストを礼拝しているわけではないから。
私が述べているのは、単に「もともと天照大神神話の原型はキリストではなかったか」ということだけだ。
日本に福音の影響があったのではないか、と問うているだけだ。
原型が同じということは、「だから崇拝してよい」ということを意味しない。
例えば、聖書的キリスト教とものみの塔が同じキリスト教から発しているからといって、ものみの塔の信仰を持ってもよいと言えないのと同じだ。
我々が崇拝の対象とできるのは、聖書に記されているイエス・キリストを唯一の主と告白できる宗教だけだ。
それ以外の宗教を信じ、それ以外の神を崇拝することは、シンクレティズム(宗教混交)である。
誤解されないようにくれぐれも注意してほしい。
(2)
もう一つ誤解の恐れがあるので申しあげる。
預言の扱いだ。
私は現代でも直接預言があると信じている。
直接預言を全面否定するのは聖書的ではない。
なぜならば、聖書に直接預言を否定する箇所が一つもないから。
この点では、欧米の再建主義者と私は異なる。
もし直接預言がなければ、夢とか幻とか牧師の説教とか友人のアドバイスとか、そういう中に神は一切ご自身の御心を示されない、ということと同義である。
これは、まったくもって非聖書的である。
なぜならば、万物は神の啓示だから。自然は神がどういう方であるかを示す啓示であるとは詩篇に記されている。
聖書は「怠け者よ、蟻を見よ」という。我々は、蟻を見ることによって、神からのメッセージ「労働にいそしめ」を受け取らねばならない。
神はすべてを御言葉を通じて啓示されるという人がいるが、それは「どこに書いてあるのか?」
聖書が記しているのは、「すべての預言は疑われるべきだ」ということだけだ。
「預言は吟味される(原語では疑う)べきだ」とある。
つまり、預言は聖書によってチェックすべきだということだ。
聖書啓示を超える啓示はない。悪魔は、預言のふりをして異なる考え、思想を吹き込もうとしている。だから、何かを受けたとしても、それをそのまま鵜呑みにはできない。
それが聖書的かどうかチェックすべきだ。
例えば、神は自然現象を通じて何かを示される。雲を見て、何かを学ぶかもしれない。
しかし、それが聖書を越えているならば、例えば、「この雲が出たのは、○○をしてもいいという神の許可だ。」と解釈する場合、○○にあたるものが、聖書で禁止されているならば、それは間違った預言である。
だから、預言をやるというクリスチャンや教会には、聖書研究が欠かせない。
聖書研究をしない働きはすべてオカシイ。伝道にしても、何にしても、聖書を学ばない傾向はことごとく悪魔から来ているから注意しよう。
最近よくメッセージで「聖書なんか勉強しているから日本ではリバイバルが起こらない」というのは、明らかに悪魔から来ている。
預言を無制限に信用してはならない。