人間的なものが主役となる教会


昔、ビリー・グラハムの伝道集会で奉仕をした。
伝道集会では、回心者を出しやすくするために様々な「仕掛け」があった。

イエス・キリストを受入れることを決心して講壇の前に進み出る人の数が増えるように、サクラをやる人がいた。

決心の際には心がそれらしくなるように清らかな音楽が流された。

ベニー・ヒンの集会でも、流れている音楽は、低い静かな音楽である。

以前、テレビで催眠術の集会を見て、その雰囲気がベニー・ヒンのそれと酷似しているのに驚いた。

キリスト教のリバイバルの伝統は、このように「雰囲気」を重視する。

しかし、私は、人間の救いがこれとはまったく別の世界の出来事であると信じている。

人間の救いとは、「自分の決断」ではなく「神の決断」である。

自分が感動したから救われるのではなく、神が永遠の昔に決定されたから救われるのである。

雰囲気で救いを決断した人が増えたから教会はやりにくくなった。

つまり、「本当は救われていない人」が大量に教会に入ってきて、「感情」「感覚」「愛されていること」など、ノンクリスチャンが興味を持つレベルの事柄を重視するから、本当のクリスチャンが興味を抱いていることを強調できなくなっているのである。

本当のクリスチャンは、聖書の教理を喜ぶ。それが人間の生まれながらの性質とどんなに乖離していたとしても。

教会は、リバイバル運動以来、「クリスチャンだけに通用する合言葉」によってではなく、「ノンクリスチャンでも通用する合言葉」で教会を運営してきた。

だから、本当につまらないことで教勢が左右されているのである。

人々は人間的な動機で教会に入ったり出たりする。

説教は、「人間を楽しませる」ものになり、「キリスト契約に本当に属する、霊において生まれ変わった人を楽しませる」ものではない。

リバイバル運動は、教会をあらぬ方向へ迷わせた。ターゲットにならないものにターゲットをあわせた。

そのため、教会のレベルは非常に落ちた。

 

 

2006年7月3日

 

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