自信を失ってはじめて本物になれる2
権威についてヴァン・ティルははっきりと述べた。
権威とは、聖書であると。そして、人間の作った学問や聖書に基づかない教理とかそういうものを聖書を超えた権威とすることはできないと。
これは、聖書を読めば明らかだ。神は、エデンの園において、「善悪を知る木の実がどんなに食べるのによさそうでも、賢くするように見えても食べてはならない」と命令された。
つまり、自分の考えよりも、聖書を優先せよ、との教えだ。
近現代のキリスト教は、この基本姿勢ができていない。
「聖書はそういいますが、進化論では・・・」「聖書はどうあれ、今の心理学では・・・」というような論の建て方をしている牧師がいたら、偽者だから追い出すべきだ。
人間的権威を聖書以上においているからだ。
異端とは、すべてこのような傲慢の生み出した果実である。
「私は神の言葉が何を言おうと、自分が信じた教えを信じ、布教する」と断言するからだ。
誤解されると困るので言うが、私は心理学などの学問全体を拒否するつもりはまったくない。
学問とは、聖書の教えを確認し、補強するためにのみ存在する。
それとぶつかるならば、学説を捨てるべきだ。
学問は、人間の文化的営為として正当なものだ。いや、むしろカルヴァン派のもとで学問は大いに繁栄した。
資本主義と科学は、カルヴァン派の文化圏で顕著な発達を遂げた。
学問自体が悪いのではなく、学問を聖書よりも優先することが悪いのだ。
この点誤解が多いので申し添えておく。
学問を聖書よりも上位に置く人は、「心の貧しくない人」である。
彼は、自分の学識や意見に自信を持っている。
なぜ自信を持てるのだろうか。
訓練されていないからだ。
神は自分に属する人間を必ず訓練される。そして、徹底して自信を粉砕される。
だから、愛されていればいるほど、訓練も厳しいから、自分の信じている学説だの見解だのに固執して聖書をないがしろにしているようなクリスチャンは、神によって甘やかされているのだ。
このような意見を持ち続けて信仰生活をやっていける人々は、神の国の拡大という最高の仕事に携わるように召されていない、いや、むしろそれを破壊するために選ばれている可能性が高い。
我々は、幸いなことに、このような道に進まないようにストップがかかってきた。
あなたが、もし人間的な方策でやっていける人生を送っているならば、クリスチャンであるかどうか疑ったほうがいい。
本当に御国のために召されているならば、ヴァン・ティルの考えに近づくだろう。そして、我々の陣営に加わるだろう。
2010年9月21日
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