再臨と70年の来臨
> 今週は、使徒の働き1章6〜11節のメッセージでした。
> 「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
> を通して、再臨の話と、出来れば、自分が生きているうちに再臨があって欲しいというメッセージでした。
> 更に、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」から、
> 『聖霊が働く時に聖書は神の言葉になる』と言う、ユニークな立場を披露されました。
聖霊が働くときに聖書が神の言葉になるという考えは、実存主義であり、バルトに通じるものがあります。
実存主義キリスト教は、進化論に伴い聖書に対する疑いから生じた教えです。
しかし、進化論がありえない説であることが明らかになった現在、我々は、別に実存主義を取り入れる必要はなく、聖書のとおりに「神が種別に被造物を創造された」と信じることができます。
聖霊が働くかいなかにかかわらず、聖書は常に神の言葉であるというのが正統的な信仰です。
もし「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」が再臨に関する預言であるならば、「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」 (マタイ16・27−28)は、まだ成就していないことになります。
となると、イエスが言及された人々は、今も世界のどこかで生きているということになります。つまり、2000歳になると。
「クリスチャンは死なないのだから、彼らが今生きているといっても間違いではないのではないか」という方もいるかもしれませんが、次の平行的な箇所を見ると、それが血肉の肉体(復活の「御霊のからだ」ではない)の死を表すのは明らかです。
しかし、「イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」そこで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に行き渡った。しかし、イエスはペテロに、その弟子が死なないと言われたのでなく、「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。」と言われたのである。」(ヨハネ21・22−23)
つまり、「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」は、再臨について述べたのではないということになります。
これは、紀元70年の来臨、つまり、ローマ軍としてやってこられた裁きのイエス・キリストを意味しています。
2010年5月3日
ツイート
ホーム