衣服はキリストを象徴している
60年代のヒッピーの時代から世界にサタンの文化が浸透するようになった。
たとえば、長髪は、反律法的である。律法では男性は髪を短く切らねばならないとあり、パウロは男性が長髪であるのは恥であると言った。
もしパウロが言うことが正しければ、キリストが長髪であったということは恐らくなかっただろう。だから、パッションなどの映画を見て、キリストについてのイメージを固定させるのは間違いだ。
60年代のユニセックスの服装も反律法的である。律法は男性は男性らしい格好を、女性は女性らしい格好をせよ、とある。
同時にこの時期からヌーディスト運動が勢いを盛り返した。昔からこのような運動はあったが、60年代以降は特別である。
ヌーディストたちは、「裸こそ人間の本来の姿だ」と主張するが、聖書は、「裸は恥である」と述べている。
アダムとエバが罪を犯してから、人間にとってありのままの姿は異常になった。だから、彼らは互いに恥ずかしいと感じて、腰にいちぢくの葉をつづりあわせて覆いをした。
もともと神の創造されたものであるから人間の体はそのままであっても恥ずかしくないはずである。だから、彼らは互いに恥を感じなかった。
しかし、堕落してから、彼らの魂だけではなく、体も、そして、自然界全体も異常な状態になった。
それゆえ、聖書の思想は、「自然は規範にならない」と教えている。
もちろん、ローマ書において「自然」を規範としているかのような記述はある。神が創造されたものであるから、自然は神の栄光や基準を不完全であるが啓示している。しかし、自然を無垢のものと考えることはできない。
人間の自然の姿である裸は、恥ずべきものであり、衣服によって覆われなければならない。
神殿の契約の箱の上蓋は、キリストを象徴する。なぜならば、契約の箱に入っている十戒の2枚の板が剥き出しで人間の前に現われるならば、人間は耐えられなくて死んでしまうからだ。ダビデの時代に、契約の箱の中を覗いた人々はバタバタと倒れてしまった。だから、契約の箱の覆いは、神の基準から人間を守るキリストを象徴しているのだ。
これと同じように、人間の衣服もキリストを象徴している。我々が衣服をつける行為はキリストによる贖いを表しているのだ。
それゆえ、ヌーディスト運動は間違いである。人間は生まれながらの罪の姿をキリストという衣服によって神から隠さなければならない。
ここに服装に関する一つの原則が生まれる。
服装がキリストを象徴する以上、クリスチャンは、キリストにふさわしい衣服を着用すべきだ。最近、格好など関係ないといって、暴走族のような格好をするクリスチャンがいるが、服装が象徴である以上、服装は内面に影響を与えるし、また、内面も服装に表れる。
つまり、乱れた服装をしている人の心は、キリストの心と不調和であることを示しているのだ。
人間存在が神の象徴である以上、福音と文化は密接に連動している。内面が変われば、それは文化に影響を与えざるを得ないのだ。
2004年5月16日
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