偶像礼拝者の特徴は相手に責任をかぶせるところにある
石打刑反対をはじめとして、人間の側で理屈をこねまわして作り出したおきてを優先する願望は、根源的な罪である。
アダムは、法を変えようとした。何が善で何が悪であるかを自分で決定することこそアダムの犯した根源的な罪である。
法を変えるということは、その個人の根源的な心がどこにあるかを示す試金石である。
つまり、クリスチャンであるかないかを分ける分水嶺である。
洗礼を受けて、クリスチャンになったということは、神の法秩序に対して恭順の姿勢を持つということを意味する。
クリスチャンとは、神の国の住民であり、神の定めに従うことを誓約した人々である。
だから、もしその人が本当のクリスチャンであるならば、彼は「律法を裁」かないはずである。
律法を捨てたり、改変することを絶対的に控えるはずだ。
しかし、今、クリスチャンと呼ばれている人々は、自分の都合によって平気で律法を改変する。
律法を改変するが、自分は変わらない。
自分を変えずに、相手を変えようとする、これが、偶像礼拝である。
偶像礼拝者とは、自分の願望に合わせて像を作り変える。
だから、今のキリスト教とは、偶像礼拝であり、今のクリスチャンとは偶像礼拝者である。
自分の希望に至るまで、神の基準を変化させようとする。変化しないと理屈をこねて、めちゃくちゃなことを言い出す。
これじゃあ、悔い改めなんてありえない。
悔い改めなければならないことができると、自分を変えるのではなく、おきてのほうを変えようとするから。
予備校や塾で教えた経験からいえることは、デキナイ連中ほど、教師について文句を言うものだ。
成績が良い生徒は、アンケートで教師のことを悪く書かない。
成績が悪い生徒がなぜ成績が悪いかというと、責任を誰か他の者にかぶせて、自分を変えようとしないからである。
成績にしても、何にしても同じだ。自分が悪ければ自分を変える以外にない。遊び友達が誘いにきても、断れる克己心がなければ、勉強で成績が伸びるわけがない。
問題は自分の側にはなく、相手にあるというのは、偶像礼拝者の特徴である。
2007年2月19日
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