契約遵守による地上支配拡大の原理を取り戻せ
「地を従えよ」(創世記1・28)
この御言葉は、最初のほうに出てきて、後は消えて忘れ去られている。
そういう印象を持つ人々は多いのではないだろうか。
「聖書って、あとはイスラエルの歴史とか、イエスの言行とか、使徒の活動などで、どこにも地上支配についての教えは出てこない」と思っている人は多いのではないだろうか。
しかし、実際は、聖書のあらゆる部分を貫いているのが、この支配(ドミニオン)という概念だ。
ユダヤ人が米国を支配している。いや、米国を使って世界支配をもくろんでいる。
これは、事実。だけど、なぜそんな聖書の民が支配に関わっているのだろうか?聖書って、「愛し合うこと」を教えているのであって、支配とか覇権とか関係ないのでは?
多くの人々は、そのように思うかもしれないが、実際は、聖書に関わる人々は、いやおうなく支配や覇権と関わることになる。
なぜならば、聖書のテーマを突き詰めると、「覇権獲得」だからだ。
聖書とは、「主権の主張の書」である。
主権者は、誰か?神か、悪魔か?
それを中心に成立している。
「右の頬をぶたれたら・・・」というイエスの教えも無抵抗を教えているのではなく、「覇権の獲得方法」を教えているのだ。
当時のユダヤ人は、「覇権は力によって達成される」と考えていた。
イエスは、「柔和な者は地を相続する」と教えられた。
ユダヤ人はパワーを信じ、イエスは契約を信じた。
イエスが昇天される前に、弟子たちに「すべての国民を弟子とせよ」と言い残された。
これを今のキリスト教は「宣教命令」と誤解している。
違う!
これは、「覇権獲得命令」なのだ。
単に「再臨までの間、携挙される人々を生み出すために、ある国民の中の数%の人々が救われるように福音を伝えればよい」というものではない。
「すべての国民を」「弟子とせよ」「教えを守るように命令せよ」なのだ!
全世界のすべて民族、国民を、クリスチャンにせよということだ。
つまり、それまで悪魔の弟子だった人々を作りかえて、キリストの弟子とし、生活全般においてイエスの教え、つまり、聖書の教えを守って、その民族の文化を作り変えよ、という命令だ。
イエスは、使徒たちに、「この地上を、聖書に従う領域に変えよ」と命令された。
だから、陣取り合戦なのだ。
ユダヤ人は、聖書からこのテーマを学んでいた。
悪魔はそれを用いて、悪魔側の覇権を確立するために彼らを利用したし、今も利用している。
異邦人クリスチャンは、この「地上覇権」というテーマを理解してこなかった。
2000年間、理解してこなかった。
キリスト教を単なる「道徳訓」にしてしまった。
今、「この地上を御国と変えよう!」と教えている教会はどれだけあるだろうか。
皆無だ。
教会の教育は、方向性を失っている。
「クリスチャンになった後何をすればいいの?」と聞く信者に対して、「一人でも多くの人に天国の切符を手渡せばいいのだ」と教えている。
そして、「地上は滅びる。そんなものに携わってはならない」とも。
だから、信者は路頭に迷う。何を目指してよいかわからなくなる。自分の仕事にどのような意味があるかわからなくなる。
「自分の職業って、単に携挙までの間、食っていくためのものなのか?」と自問しながら生きている。
これは、すべて聖書から覇権や支配の要素を取り除いたからだ。
旧約聖書の軽視が、このような形で現れた。
異邦人キリスト教が旧約聖書を軽視したために、覇権への意識がなくなり、方向性を失って、そのために戦略を持つユダヤ人に食われてきた。
旧約聖書を再発見する必要がある。
「地を従えよ」との命令から、律法研究を通じて相続について学び、契約の考えを学んで、祝福と呪いの法則を学ぶ必要がある。
旧約聖書のテーマは、契約を守ることを通じて地上において御国を拡大するといものだ。
「掟から離れてはならない。裕福になるために。父母を敬え。長生きするために。御名をみだりに唱えるな。のろわれないために。・・・」
旧約聖書の律法は、契約の民がいかに地上を支配し、覇権を拡大するか方法を教えている。
教会には、このような視点が決定的に欠けていた。
ユダヤ人は、旧約聖書を通じて、地上支配について徹底して学んできた。
だから、勝ち目はないのだ。
奴らは、異邦人が及びもつかないような知恵を持っている。
異邦人がぼけっとしている間に、もしくは、的外れな方法で力を獲得しようと努力している間に、彼らは契約を守ることに集中してきた。
だから、異邦人に酒を飲ませてアル中にするが、自分は飲まない。
異邦人に堕落したエンターテインメントを提供するが、自分は穢れから離れている。
マイモニデスというラビが「律法を学ぶ異邦人は死に値する」と言った。
「律法はユダヤ人だけのものだ」と。
どうして?どうしてこれだけ律法に固執するの?
それが「祝福の道」だと知っているから。
異邦人が祝福にあずかることがないようにしたいから。
ユダヤ人だけが祝福されることを望んでいるから。
対日原爆投下を決定したバーナード・バルークは、ウォール・ストリートで働いていた頃、株式投資で一か八かの賭けに出た。翌営業日にある会社の株を取引して、巨額の資金を手に入れる予定だった。
バルークは、ある会社の社長が「通常の配当金を支払えない」と宣言するだろうと踏んでいた。なぜならば、会社の経営が芳しくなかったからだ。しかし、もしその社長が、はったりをかまして、配当金を支払うことができると宣言すると、その株は上がり、すべてを失ってしまう。
配当金に関する発表の前日に、彼の母親が「明日はユダヤの祭日ヨム・キップール(大贖罪日)だよ」と教えた。そのため、彼は、その日を聖日として守り、仕事をしてはならなかった。彼は母親との約束を守った。その日一日、電話も電報もすべて無視した。友人が「お前の予想と逆になった。配当金は支払われることになったぞ。損失を補填しないと大変なことになるぞ」と伝えるために警告の電話をかけたのだが彼は出なかった。
バルークは、祭日が終わって、電報を読んで「配当金が出た」ということを知った。しかし、結果として株は上がるどころか、暴落していた。
もし友人の電話を取っていたら、発表にあわせて逆の取引をし、その結果大損をこうむっただろう。しかし、戒律を守った結果、彼は逆に巨額のお金を手に入れることができた。
(Wikipedia--Bernard Baruch)
ユダヤ人は、外面的にでも律法を守ることが、地上における支配の拡大につながることを知っている。
善意はあるのだが、律法に逆らうことをするために、逆の結果をこうむっている異邦人を見て彼らはあざ笑っている。
異邦人クリスチャンは、旧約律法を無視し、そのため、律法が富を生むという法則を無視してきた。
そのために、御国は停滞し、悪辣なユダヤ人は支配を拡大してきた。
キリスト教は、律法を取り戻すべきだ。
そして、契約遵守による地上支配拡大の原理を取り戻すべきだ。
2010年8月13日
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