クリスチャンに対する神の評価


どの組織でもそうだと思うが、仕事の能力の高い人間に大きな責任を与え、能力の低い人間に小さな責任を与えるだろう。

聖書は、神がまさにこのように人を評価される方であると教えている。


彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』
しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません。』と言った。
さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。
さて、最初の者が現われて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。』
主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』
二番目の者が来て言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、五ミナをもうけました。』
主人はこの者にも言った。『あなたも五つの町を治めなさい。』
もうひとりが来て言った。『ご主人さま。さあ、ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。
あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。』
主人はそのしもべに言った。『悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたをさばこう。あなたは、私が預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取るきびしい人間だと知っていた、というのか。
だったら、なぜ私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうすれば私は帰って来たときに、それを利息といっしょに受け取れたはずだ。』
そして、そばに立っていた者たちに言った。『その一ミナを彼から取り上げて、十ミナ持っている人にやりなさい。』
すると彼らは、『ご主人さま。その人は十ミナも持っています。』と言った。
彼は言った。『あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている物までも取り上げられるのです。
ただ、私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ。』」(ルカ19・13-27)

間違ってはならないのは、神の御国とは、少ない資源を、より効率的に、より迅速に処理する人間によって前進するのである。

もしそうでなければ、なぜ神が能力に応じて報いを変えたか説明できない。

神の御国も会社と同じように、費用対効果に優れた人間によって前進するのである。

神を象徴する主人は同じお金を与えて、どれだけ儲けることができたか下僕たちを評価した。

多く稼いだ者は評価が高く、少なく稼いだ者は評価が低かった。

我々はとかく「神には無尽蔵に財産があるのだから、そんなけち臭いことは言わないだろう。」と考えがちだが、神の評価は自前の資本がほとんどない企業と同じようにシビアである。

何もしないでグータラやる社員が会社にとって無用なように、神の世界においても、無為無策の人間は排除される。

まったく何もしなかったとしても、預けられたお金を銀行においておけば利子がついて増やすことができたのにそれもしなかったしもべはひどく叱責された。

「だったら、なぜ私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうすれば私は帰って来たときに、それを利息といっしょに受け取れたはずだ。」

クリスチャンは、自分のことを「神の御国」という名前の会社に雇われている社員だと考えたらよい。

社員は会社の利益に貢献しなければならない。それが主な仕事だ。

給料をもらっているのに、何の働きもしなかったら首にされる。

自分には能力がないと感じても、神はそんな言い訳を聞かれない。

「何か稼ぐ方法があったはずじゃないか?」と問い詰められる。

自分に与えられた能力や機会をそのまま神の前に出して、「これはあなたのものです。お返しします。」と言ったら雷が落ちる。

少なくとも任されたものよりも1円でも増やした形で返さねばならない。

「減らしました」なんて、お話にもならない。自分がクリスチャンになる前よりも、なった後のほうが神の御国が少しでも前進していなければならない。

自分が生まれた時と死ぬ時とを比べて、この地上に何らかの御国の進展がなければ、自分が生まれてきた意味がない。

神は、我々の人生を評価される。

「え〜!神は愛の方で、私たちをありのままで受け入れてくださるんじゃないですかぁ?」と言う人がいるかもしれない。

聖書を見てごらん。

人間が救われるのはただ信仰により、我々には神に差し出す値のあるものは何もないし、神は我々に何も期待されない。イエス・キリストを信じる以外に何も要求されない。

しかし、人間が救われてクリスチャンになった後の、「御国建設」という仕事に関して言えば、神は我々を評価される。

最近流行のキリスト教は、救われた後のことを何も教えていないので、商品で言えば、現在の教会は、まったくひどい欠陥商品を売りつけているようなものだ。

聖書は何と述べているだろう。

ちゃんと「働きの評価はある」と教えているではないか!

クリスチャンは無条件に永遠のいのちを受け取れるが、受け取った後には、仕事が待っていて、そこからは仕事人として評価されるよ、と書いてあるではないか!

このルカのたとえは、クリスチャンが会社員と同じように仕事に関してシビアに評価されると教えている。

その評価の基準は、少ない資本をどれだけ有効に活用し、それを増やすことができるか?である。

各自与えられているものは異なる。

学者ならば、御国の前進に貢献し、世界に聖書的キリスト教の影響を広めるために、聖書的な学問をどれだけ作ることができたかで評価されるだろう。

教師だったら、聖書的世界観に基づく個別教科をどれだけ分かりやすく効率的に生徒に教え、教え子たちを通じて神の御国がどれだけ発展したかを評価されるだろう。

ビジネスマンだったら、自分が受け持っている仕事の領域においてどれだけ御心にかなった仕事ができたかで評価されるだろう。また、本当に聖書的な働きに多くの資金を提供して、御言葉の働き人をどれだけ養うことができたかも問われるだろう。

主婦だったら、自分の子供がどれだけ御国の働き人として成長したか、また家庭がどれだけ聖書的な家庭になったか、どれだけ夫を助け、御国建設に役立ったかによって評価されるだろう。

私は、私も含め、今のクリスチャンは、日本であるか外国であるかを問わず、大きな叱責を食らうと思う。

御国がこれだけ衰退した現状について言い訳はまったくできない。

大きな悔い改めが必要だと思う。

 

 

2005年3月5日

 

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