広島原爆記念集会への国連事務総長の出席は歴史的茶番だ3
既述のとおり、この、国連憲章のために集まった人々の中から特別に選ばれた人々によって開かれた会合を指揮したのは、エドワード・ステティニアス・ジュニアであった。ステティニアスは、第一次世界大戦に世界の最大の軍需品取引商であったJ・P・モルガンの息子であった。
J・P・モルガンは、ステティニアスに、全戦争を通じて、フランスとイギリスへの軍需品輸出の総元締めとしての役割を負わせていた。つまり、米国国務長官は、戦争によって金儲けをしていた。
ジョン・フォスター・ダレスは、徹底した戦争屋であった。1933年に、彼と兄弟アレンは、コローニュでアドルフ・ヒトラーと会い、ナチ政権維持に必要なすべての資金を提供することを約束した。ダレス兄弟は、クーン・ロエブ商会(後のリーマンブラザーズ)の代理人であった。
アルジャー・ヒスは、合衆国における共産主義者のトップ・エリートであった。戦後、ジョン・フォスター・ダレスのバックアップにより、カーネギー国際平和基金の総裁に選ばれた。ヒスは、ソ連のスパイとして偽証罪により刑務所に入った。
この秘密会議は、実質的に、国連の第1回軍事戦略会議となった。そこで決定されたのが、人間に対する原爆投下実験を成功させるために日本の降伏を無条件降伏によって遅らせることであった。
また、そこでは、冷戦全体の戦略が策定された。冷戦は、戦後43年間続き、米国市民に5兆ドルのお金を拠出させたが、当初の目的のいかなる部分も達成できなかった。
ごらんのとおり、ニュー・ワールド・オーダーの全戦略は、広島と長崎の数十万の両市民――その中には校舎の教室に座っていた数千人の児童も含まれていた――の地獄の苦しみの上に成立していた。
これらの指導者たちは、彼らの師匠ヨシフ・スターリンから「大衆テロリズム、そしてそれに伴う大量殺戮なしに支配することは不可能である」との教訓を学んでいた。
共和党の忠実な反対派の指導者バンデンバーグ上院議員が『アメリカン・ヘリテージ』1977年8月号にて述べたとおりである。
我々は、「奴ら」を震え上がらせないといけなかった。
2010年8月16日
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