聖書の一字一句にこだわるべきだ
ある教会において、問題教会員が放置されており、被害者が多数出ているという話を聞いた。
結婚詐欺のようなことをして、相手の女性を傷つけたり、傍若無人の振る舞いをしているが、牧師が何もしないという。
こういう牧師は、狼から羊を守ることのできない無能牧師である。
牧師の主要な務めとは、羊を教えと実際において狼から守ることにある。
今の教会は裁きということが分かっていないようだ。
教会の牧師が大変大きな問題を起こして、信徒をつまづかせているのに、他の教会の牧師はそれに目をつむって、相変わらず彼との交流を切らない場合がある。
罪が明らかになったら、その罪を処理しないと、腐れがどんどん広がって教会全体、そして、キリスト教界全体に広がる。
倫理的問題の場合は、3度の警告で、教理的な問題の場合は、1,2度の警告で、除名にせよ、と聖書は教えている。
教会はキリストの花嫁なのだから、純潔でなければならない。
ここ100年、サタンに属する人々が、教理的・倫理的放縦に寛容というレッテルを貼って、教会に売りつけるようになった。
異端の教えが入っている教理を受け入れることを奨励し、それを拒否すると、不寛容だと責める。彼らにとって「マイルド」とか「ブロード」という冠は絶対である。
彼らの影響によって、カルヴァン主義の群れの間でも、ヴァン・ティルのような厳密なカルヴァン主義は敬遠され、「マイルド・カルヴァン主義」がもてはやされるようになった。
選びの教理やセオノミーは毛嫌いされている。
「極端なのはよくない」と彼らは言う。
姦淫に極端もマイルドもない。
イエスは、「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ5・48) と命令される。
「イエスは、姦淫の女とか収税人を受け入れられた、だから、律法的な態度はよくない」という最近流行の教えはまったくの誤謬である。
キリストの花嫁としての教会には、完全な純潔が求められている。
律法は事細かに「落ち度なく」守るべきである。
福音書は、律法を落度なく守ることを奨励している。
「ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた。」(ルカ1・5-6)
ここで、ルカは、「神の御前に正しい」ことの内容を記している。それは、「戒めと定めを落度なく踏み行う」ことである。
教会は、聖書の文字一つ一つにこだわって、それを落度なく守るべきである。
そして、聖書的ではないものを「一切」受け付けないようにすべきである。
今の牧師や教師は、聖書の字句をめぐって教理論争をしたり、自分の生活を御言葉にあわせようと努力している人に向かって、「あまり律法的になってはなりません」という傾向がある。
一字一句こだわることが「律法的」なのか。では、「律法的ではないもの」とは何か。
「一字一句にこだわらずに大雑把に生きること」か?
そんなことどこに聖書に書いてある?
ある有名な「伝道師」は講壇から「みなさん、勉強すると暗くなりますよ。日本が伝道に失敗しているのは勉強ばかりしているからです。」と言った。
実際、私の体験では、日本の教会がよく勉強しているところを見たことがない。日本の教会は、牧師をはじめとして、基本的な教理すら知らない。
いつもトピックメッセージばかりで、同じ基本を繰り返し繰り返しやるばかりで、信徒が自分で聖書を読めるように指導されていない。
もし教会が聖書をきちんと妥協せずに教えるならば、強いクリスチャンが生まれるだろう。その強いクリスチャンは、どんどん新しい人々を獲得し、同じように強いクリスチャンを生み出すだろう。そして、その強いクリスチャンと強いクリスチャンが結婚して、強いクリスチャンホームが生まれるだろう。
しかし、現状を見て欲しい。
クリスチャンは弱く、クリスチャンホームも弱い。
熱心なクリスチャンはいるが、変な教理に凝り固まって、「終末が近い」だの、「死後の救い」だの、変な活動をやっている。
聖書の一字一句にこだわらないからこんなに悲惨な状況になっているのだ。
教理が一人歩きして、歴史的なキリスト教から大きくずれている。
聖書から論証できないようなことを頑固に信じても何もならない。
まず正しい教えを教えられる必要がある。そして、良い物と悪い物を区別できる目を養うべきだ。こういう地道なことをやらないから、外国から来るいろんな変な流行に惑わされて、いろんなところに引きずりまわされて、疲れきっているのだ。
マイルドさやブロードさは、絶対善ではない。厳しくしなければならないところでは厳しくし、緩めるべきところではゆるめなければならない。
スポーツでも車の運転でもそうだが、緩急自在に、ツボを抑えながら行動できるにはそれ相応の訓練が必要だ。
まず聖書である。聖書を厳密に学び、一字一句に対して命をかけて取り組むべきだ。
2004年8月26日
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