永遠のいのちを受けるには全的献身をすべきである2
<MK様>
tomi様
早速のご返事感謝申し上げます。
研究1で取り上げた聖句は、私にとって大変思い入れの深い聖句です。
信仰を回復した後も、新改訳聖書のみで聖書を理解しようとしておりました。
しかし、それだけでは不十分であることに気が付かされたのが、この聖句でした。
「世と調子を合わせる」とは、「全的献身をしていない」態度です、等々のご指摘、参考にさせて頂きます。
さて、研究2に関してですが、この個所も問題点が多々あるように思います。
「悪霊」を「ウイルスのようなもの」と理解し、これが感染すると、2重人格等の精神疾患を引き起こす、との解釈は成立するのでしょうか?
この点に関してのみ、コメントをお願い致します。どうも、O氏は、この個所を私よりも科学的に理解しようとしておられるようです。
研究2
示される順にしたがい、ルカ8:27から8:39までの個所に関して考察してみます。
始めに、「悪霊」なるものを検討します。
旧約聖書辞典で、「悪霊」を検索すると、2回登場します。
申命記32:17 神ではない悪霊どもに、彼らはいけにえをささげた。
詩篇106:37 彼らは自分たちの息子、娘を悪霊のいけにえとしてささげ、
この2箇所から、「悪霊」とは、1)霊ではあるが、もちろん神ではなく、2)子孫を生贄として要求することが分かります。ひとたび心を許すと、人殺しまで要求する大悪党(どこかの大統領と同じ)です。以前に成人クラスで「邪悪な良心」とは何か、を考察しました。「邪悪な良心」とは、キリスト者が罪の意識を強く持ったときに、それを昇華するためにとる思いや行いであり、「邪悪な良心」の極みが子殺しであることが分かりました(ミカ6:6、7)。
つまり、キリスト者も悪霊に憑かれる可能性が常にあることを聖書は警告しています。悪霊はそこかしこに存在し、キリスト者を含めてすべての人間の良心をくすぐり、キリストから引き離し、地獄へ突き落とそうと企んでいます。
ちなみに、「サタン」は、まさにへブル語(サータンまたはサーターン)であり、日本語では「敵対者」「なじる者」と訳出されています。悪霊、サタン、悪魔の違いについてはここでは論じません。
いずれにせよ、「聖霊(神)」の実在を信ずるなら、「悪霊」の実在も信じるべきです。
ルカ8:31 悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った。
「底知れぬ所」とは、地獄のことでしょうか。ロマ書10:7、
黙示録9、11、17、20章に登場します。悪霊ですら行きたがらない場所が存在することを意味しています。この場所へ自分は行きたくはないが、人は突き落とそうと機会を狙っているのが悪霊です。
ルカ8:29 それは、イエスが、汚れた霊に、この人から出て行け、と命じられたからである。
英語訳では、「命じられた」は、いずれも過去完了で訳出しています(原語では単純過去形)。日本語訳でははっきりしませんが、英語訳3書を尊重すると、「以前にも命じたことがある」ことになります。そこで、ルカ書をさかのぼって検討してみると、
ルカ4:35 イエスは彼をしかって、「黙れ。その人から出て行け。」と言われた。
という個所が見つかります。この個所の「悪霊」は単数形ですが、8章に出てくる「悪霊」は複数形です。同一犯であると仮定すれば(恐らくそうです)、他の汚れた霊を引き連れて、再度人に憑依したことになります。執拗で悪質な攻撃です。さて、主イエスは、「滅びよ」とは言わずに、「出て行け」と命じました。「滅びよ」と命じなかったのは何故か?
主イエスが、「底知れぬ所に行け」と命令したなら、悪霊はもちろんのこと、憑依された男も同時に滅ぶことになるからではないかと、私は推察します。33節にあるように、憑依された豚の群れはおぼれ死に、この男は助かりました。主イエスにより救われたのです。
ここに神の子イエスのあわれみと圧倒的なパワーを感じ取ることができます。
一方、まさにこの場面で、悪党レギオンができることは、神のあわれみを乞い(利用し)、「滅ぼされるくらいなら、今は豚にでも憑依しておいて、他のターゲットを乗っ取る機会を待つ」という姑息な悪巧みだけではなかったのかと思われます。新共同訳では、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」と訳されており、この訳の方がすっきりします。
この個所の行間から「主のあわれみ」が無意識の内に感じとられたため、「悪霊は最初から主に征服してもらうことを望んでいる」という感覚が生じたものと推察しますが、如何でしょうか。先の考察から、悪霊が主に征服してもらうことを望むことはあり得ないことです。ここで読み取りたいことは、悪霊の狡賢さと神のあわれみ、そして何よりも神の絶対権威であることは言うまでもありません。
ルカ8:27 彼は、長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた。
ルカ8:35 イエスの足もとに、悪霊の去った男が着物を着て、正気に返って、すわっていた。
「着物を着けず」とは、「恥をさらす」、「肉欲のまま」といった意味合いでしょうか。
しかも身体を拘束されていたと書いてありますから、「霊も体も病んでいる人」というよりは、「霊も体も死んだ人」といった印象を受けます。腐った魚のような眼をしている、今のこの国の若者を思い起こしてしまいます。
「着物を着て」とは、「イエスキリストを身にまとって」いる状態を示唆する表現ですから、除霊後、霊的に生き返ったことを意味します。「正気に返って、すわっていた」とは、身体拘束が必要なくなった、つまり体も自由になったことを意味します。主イエスによって、この男は心身共に生き返させられたと理解します。
2004年9月11日
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