今日のディボーションも教会成長も的が外れている


<Q>
今日、先生の書いた記事を読んでいてよくわからないことがありました。
「会員制と私のビジョン」という記事の中で


「今日のキリスト教が一生懸命取り組んでいる「デボーション」「伝道」「悪霊追い出し」「教会成長」「心理学」などは、ことごとく、ヒューマニズムに対する反省なしに行われているために、問題を根本からとらえることができず、そのため、サタンに対して有効な攻撃を加えていません

とかいてあったことについてです。
自分の教会は韓国系で、ディボーションや教会成長学をたくさんしているのですがどうしてこれらがヒューマニズムなのでしょうか?
ディボーションは聖書のみ言葉を観察 理解 適用 実践
することなのでただの聖書にたった保守的なものだと思います

教会成長学は今日の社会で教会がどのように福音を宣べ伝え
教会がどうあるべきかを聖書のみ言葉によって探ったものだと思います

確かにある牧師はQTをしない人は霊性が低いとか
地獄に落ちるというのは心理学的によくないから

というのはヒューマニズムだと思います

<A>
「ディボーションや教会成長学がヒューマニズム」であるとは言っていません。

「ディボーションや教会成長学はヒューマニズムへの反省がない」と言ったのです。

世界は、カント以降、ヒューマニズムに汚染されました。

ヒューマニズムとは「人間崇拝」です。人間を神とする教え。新興宗教です。

我々は学校においてヒューマニズムを教え込まれているので、教会の中にそのような人間中心主義が入り、教えを毒してきました。

ディボーションや教会成長が、このような人間中心主義への反省に立たずに、行われているために、巧妙にすり替えが行われている。

ディボーションや教会成長は本来の意味においては正しい。

しかし、サタンは巧妙にすり替えを行う。

聖書を読み、黙想し、祈ることは、イエスが模範を示されたので、聖書的です。

しかし、「敬虔さの追求」「内面の純化」そのものが大きな比重を占め、本来の人間の目的である「地を従える」ことがおろそかにされていれば、その内面の純化というものは何の意味があるのか。

自分の内面に集中して、聖書の御言葉の本質に目を向けないというのはいったい何か。

今のディボーション運動に私はグノーシスの「自己神化」的野望を感じる。

グノーシス主義の秘密結社アランブラドス出身のロヨラ、アルミニウス主義者ジョン・ウェスレーと共通するものを感じます。

教会成長も同じ。

今の教会成長運動は、「牧師の自己実現」的野望がある。

普通の会社や商店を大きくするのと同じような野望が。

金儲けそのものは悪くないのと同じように、教会の人数が増えることには何も悪いことはありません。

しかし、金儲けが自律的に動きだし、神の栄光、神の国の拡大という大きな目的と無関係な方向に進むならば、それは、単なる「野心」になり、のろいの対象になるのと同じように、教会成長が自己目的化したら、それは牧師が神の代わりになることであり、これも神にのろわれます。

フラー神学校の教会成長学を導入した結果、全国いや全世界の教会が大きく堕落しました。そして、破局を迎えた。

サタンは巧妙に牧師を「人集め」「金儲け」に向かわせた。

大きな目標である「地を従えよ」との命令に沿って、人間の野心ではなく、神の一つ一つの導きがあるまで待つという姿勢がなければ、我々は容易にサタンに騙されて、あらぬ方向に導かれ、破滅するということです。

 

 

2009年10月19日

 

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