1990年の再建主義裁判が持つ霊的な意味
今、定まった教会が見つからないクリスチャンが多いのではないだろうか。
1996年に按手礼を受けてから、ウェストミンスター神学校を出た牧師と清瀬市で4,5人で集会を持っていたが、この牧師、ビジョンの違いから離れていった。
今は、友人と礼拝をしている。2ヶ月に一回くらいだが、ユダヤ人夫婦と家庭集会を持っている。
ときどき近所の教会にも行く。
行ってメッセージに唖然とすることが多い。
ガンジーは聖人なんだと。
「イエスを羽交い絞めにしなさい」だと。
「世の終わりは近い。ハルマゲドンはまもなくだ!」だと。
こういうメッセージだと二度と訪問したくないと思う。
イエスへの冒涜、ノンクリスチャンとクリスチャンの区別の撤廃、聖書的根拠のないカルト的終末論。
もうまともな教会は死滅したのか、という印象だ。
聖書まで、削除だらけのスカスカ訳。
教会が健全になれるはずがない。
インターネット上では、神学の基礎知識もないばかりか、人の発言を無視した一方的に無根拠に断罪する教会ハンターが跳梁跋扈。
右を向いても左を向いても、異常だらけ。
私が学生時代、教えは不完全だったが、教会は総じて健全だった。
私は、1990年の再建主義裁判が一つの転機だったと思っている。
当時所属し、牧師補をしていた教会が私のセオノミーの信仰を「異端ではないが危険な教え」として断罪、除名しようとしたが、失敗した。この裁判にはいくつかの問題点があった。
1.教会側が退職を命じたわけではなく、発端は私からの退職願いだった。
2.セオノミーそのものについては、教会付属神学校の卒論で書き、牧師の了承の上で教職に採用された。秘密にしていたわけではない。一般に、セオノミーはカルヴァン主義の伝統でもあるので、アメリカ長老教会においてセオノミーを異端とする人々はいない。
3.長老会を開いたが事前無通告により、10数人の長老が召集されず、欠席のまま牧師だけで決議しようとした。
その後、この教会、さらに長老の不当除名処分に起因する内部混乱により、大量に会員が離れた。
セオノミーの拒絶は恐ろしい罪である。
なぜならば、セオノミーとは、神の法(セオス(神)+ノモス(法))だからだ。神の法、神の御心、神の言葉を公的な裁判において拒絶するとどうなるか。
明らかに神からの離反→サタンによる騙しの中に入るということだ。
この教会は福音派の中心的教会だったため、福音派にとってこの裁判の影響は大きかった。
残念ながら、他の教会は見て見ぬふりをした。セオノミーのゆえに、牧師補が免職にされかかったのに。無実の長老が裁判にかけられて不当に解雇されようとしているのに。
贖罪の意味で、福音派のある教団の牧師たちがこの長老が作った新しい教会でしばらくの間無料奉仕をされていた。
私に対する配慮は一切なかった。
むしろ、長い間、異端視されてきた。
だから、私としては福音派に属することに意味はなくなったのである。
いや、今のキリスト教界全体に所属することに意味はない。なぜならば、聖書から離れているから。
聖書を軽視して群れる集団に何の意味があるのだろうか。
1990年は霊的な世界において大きな変化のあった年だ。
ディスペンセーショナリズムがその正体をはっきりと現し、セオノミーを拒絶した年。
福音派の教会が、神の法の権威を公的に拒否した年だ。
2009年8月21日
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