クリスチャンは学問に限界を設定しなければならない4

聖書信仰を否定する牧師や教師たちは、最悪の罪を犯しており、その人生は最悪の失敗である。

こういった牧師や教師は、あたかも燃え盛る建物から飛び降りようとしている人々に向かって下から

「飛び降りてはだめだ。このマットは一部開いてあり、空気が漏れているから、危険だ。」と叫んでいる人のようだ。

牧師は、「大丈夫だよ。その燃え盛る炎の苦しみの中から救われる道はイエスを信じて信仰によって歩むことだよ」と教えるために召された。

しかし、もし彼が聖書に対して疑いを持ち、それを人にも勧めるならば、実質的に、「もはやどこにも救いはない」と宣言しているのと同じだ。

「いや、ちゃんと救いを提供していますよ。下にはふかふかのマットがあるから飛び降りなさい」と言っているのです。

とある牧師は言うかもしれない。

しかし、彼がもし「このマットは完全ではありません」というならば、実質的に人々はそれを信頼して飛び降りられない。

つまり、聖書に対して「科学や歴史や司法に関して権威ではない」ということは、「科学や歴史や司法に関して信頼に値しない」といっていることと同義であるから、人々に対してこれらの分野に関して救いを提供していないのである。

イエスははたしてそんなことを言われただろうか。聖書はそんなことを伝えているだろうか。

イエスや聖書は、「人間の部分的救い、部分的権威です」と言っているだろうか。

聖書の権威を限定する罪は、恐ろしい罪である。

こういう教えを伝えている牧師や教師は、とんでもない罪を犯していることに気づくべきである。

 

 

2008年2月21日

 

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