旧約律法に対するあいまいな態度を捨てるべきだ2
> ご心配してくださってありがとうございます。
> ガブリエル師は、少数民族に福音を伝える使命をもっていらっしゃるとかで、アイヌ伝道を成功されたかたです。アメリカインディアンの伝道と、アジアの少数民族・・・今までのメシアニックの方がたとは異質のかたでした。ユダヤ人がユダヤ人としての民族性を否定されてきた歴史から、少数民族の民族性をそのままで福音を伝えたいと言っていました。日本のキリスト教は西洋のキリスト教をそのまま受け入れていて、日本の民族性が失われていると、創世記11:7、黙示録7:9から、神は「あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから・・・」とあるように、日本人は日本人としての神の礼拝の仕方があるのではないかと、疑問を投げ出されました。
私は、日本の文化の基本に、ユダヤ思想があると考えています。
これは、考古学的にも証明できるものであり、神社の構造など様々な文物にユダヤ人の影響を見ることができます。
古代における東西交流が想像以上に進んでいたということが明らかになりつつあり、日本にユダヤ人がやってきて、神道の成立に大きな影響を及ぼしたと考えることはけっして非現実的なことではありません。
クリスチャンの立場から見れば、ユダヤ人がバビロン捕囚後、世界に離散し、その離散ユダヤ人の間にネットワークがあって、そのネットワークを通じて、パウロやペテロらの伝道が進んだと信じるべきであると考えます。
なぜならば、パウロはすでに存在したシナゴーグにおいて「イエスこそメシアである」と伝えたと聖書にあるからです。
彼は、ユダヤ人のネットワークを通じて福音を伝えました。
当時、シルクロード沿いにはユダヤ人のシナゴーグが存在し、ラビが巡回伝道していたと、ラビ・トケイヤー氏は語っています。
紀元前2世紀にすでにユダヤ人集落の存在が確認されており、それゆえ、紀元前から日本にユダヤ人がやってきたと考えることはけっしてありえないことではありません。
日本の基本文化には、ユダヤ思想があり、それゆえ、日本はセム文化圏にあると言ってよいのではないかと思います。
そう考えると、アーリア文化によって過剰な装飾を施され、神学を歪められた現代のキリスト教の伝道が日本において失敗するのも当然といえるでしょう。
私は、日本人には、聖書的象徴が似つかわしいと思います。
自然を分析するというよりも、それを神の真理を表す象徴として理解していく。
このような分析論的と対置する全体論的な理解というものが必要なのではないでしょうか。
> 韓国のキリスト教が延びたのは、韓国人の国民性にあった福音を伝えているからではないかと、フット思ったのです。徹夜祈祷、断食祈祷院など、国民性に合ったやり方なのではないかと。思っただけで、そのようなことを誰も言っている人はありませんから、私の思いだけです。
たしかにそうだと思います。
韓国式のキリスト教は、絶対に日本に根付きません。
民族性がまるで違うからです。
日本人の場合は、もっと教理教育が必要と思います。
確信をもつ人を増やすことによって、強固な基盤ができます。
着実に一歩一歩基礎から地道に築き上げていくのがよいと思っています。
> 彼はユダヤ人がこの2000年間ユダヤ人であることを否定された歴史から、少数民族が強い部族に吸収され、民族性を失い、西洋的キリスト教に改宗されるのを嘆き、その民族を尊重しながらキリストの福音を伝えることに重荷をもって宣教している報告会でした。
民族を尊重することに異論はありませんが、とかく民族を尊重するというと、民族に特有の部分にのみ焦点をあたてエキセントリックなものになってしまうきらいがあります。
まずきちんとした過去の神学研究に対する尊重を背景として持たない限り、まともな運動にはならないと思います。
日本の場合は、良書が圧倒的に不足しており、スタンダードな流れを追いかけることすらできず、人々は新しい「枝葉」の神学を追いかけている状況です。
まず、スタンダードでまともな神学を教職者の間に普及させる必要があると思います。
> 今までのメシアニックに対してはどうしても好感は持てませんでした。たぶん富井さんが懸念されていることと同じだと思います。
>
> ただ思うことは、どのような群れにおいても、残りの者を主は用意してくれているのではないか。主に忠実に歩む時に主ご自身が密かに育ててくれている者たちがいるのではないか。それは
> 主ご自身のみがご存知のことであり、私たちには分からないのではないかと思っています。
そのとおりですね。
2005年11月7日
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