田舎道を車で移動しているときにしばしば黒地に黄色の聖書に関する看板を目にする。
「悔い改めよ」とか「主の再臨は近い」とか。
この現代の流行の終末論を聖書から検証すると、いわゆる「再臨」を示す箇所はどれも紀元70年の来臨についてである。
イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。」(マルコ9・1)
これは、神の国の到来が紀元1世紀に起こるということを示しており、2000年後のことを意味していない。
「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」
「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。
これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。(黙示録22・7、12、20)
ここでイエスは「すぐに」来ると約束された。
だから、これは2000年後の再臨を意味していない。
原語では「時を置かずに」を意味する言葉である。
まことに、あなたがたに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。
まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。(マタイ23・36、24・34)
つまり、今ディスペンセーション神学がさかんに「再臨預言」としている24章の「前兆」がことごとく「この時代」に起こるというのだ。
つまり、マタイ23や24章は、再臨預言ではないということ。
イエスは、同時代のうちに裁きが起こり、神殿崩壊の前にさまざまな予兆が起こると言われた。
以上から見てもわかるように、今の流行の再臨説が主張する証拠聖句は、みな紀元70年の出来事を指している。
では、なぜこれだけ、聖句が紀元70年の神殿崩壊およびそれに先立つ前兆について述べているということがはっきりしているにもかかわらず、現代のプレ・ミレの聖書預言解説者たちは、それを世の終わりの再臨と解釈したいのだろうか。
それは、「新天新地がまだ来ていない」と信じさせるためである。
つまり、彼らはクリスチャンに「まだイエスの時代ではない」と信じ込ませたいのだ。
なぜならば、もしクリスチャンたちが「すでに紀元70年にキリストの千年王国が到来したのか!」とわかれば、敵であるサタンを恐れなくなるからだ。
サタンの陣営は、できるだけクリスチャンを「びびらせて」おきたいのだ。
クリスチャンが「今はサタンの世で、反抗なんかできない。黙示録の預言のとおりに事態は進展するしかない」と思わせたいのだ。
だから、これら聖書預言解説者たちは(意図してか意図せずにか)、「まだこれらの預言は成就していない。えっ?紀元70年に全部成就した?違います!預言は2重で成就しなければならないのです!もう一回成就します!」なんていう屁理屈をこねるのだ。
預言の2重性などは、異端の解釈である。
時代的・歴史的・文法的に聖書は読まねばならない。もし預言の二重性を認めるならば、恣意的「読み込み」を許容することになり、正統的な神学ではなくなる。
都合のよい場合に、「このイザヤによる紀元前6世紀のエドム人への裁きは現代においても、エドム人の子孫であるアラブ人に適用できるのです」というようなトンデモない解釈も可能になってしまう。
サタンはイエスが王であることを知られたくないのだ。
クリスチャンがイエスに祈るときに、サタンが敗北せざるをえないという事情を知られたくないのだ。
だから、彼らはプレ・ミレ・ディスペンセーション神学をはやらせて、クリスチャンに、諦めと運命論を植えつけようとした。
サタンは、いまやいかなる妨害なく、いろんな悪事をなしている。
今起きている異常気象、地震、原油流出は、彼らがクリスチャンに黙示録のとおりのことが起きていると錯覚させたいからにほかならない。
だまされるな!
われわれが祈れば、彼らは何もできない。
目を覚まして、絶えず祈ろう!彼らの計画を頓挫させよう!