全国に平等のサービスを保証する政治家を信用するな
郵政民営化への反対の一つは、民営化されることによって過疎地の郵便局が縮小もしくは撤廃し、これまで全国民への平等のサービスが不可能になるということである。
民営化とは、当然、その組織が、収益を中心に行動するように変わることを意味しているから、原則として、収益が上がらない地方や地域が犠牲になるのはある程度いたしかたがない。
(もっとも現在の日本において、民間の宅配便などのサービスは不採算地域でもサービスで配達を行っているし、全国津々浦々電気や電話が通じるから、「収益中心=不採算地域の切り捨て」ということを意味しないと思うが。)
田舎に住むということは、不便を甘受するという覚悟を必要とする。田舎に住み良い空気と水と自然の景色を享受しながら、同時に都会と同じサービスを受け取ることを願うというのは、贅沢である。
これまでの平等主義に毒された日本の政治は、全国の人々が平等にサービスを受けられることを目指してきたが、そのような約束は幻想なのである。
何かを受けられるならば、何かを犠牲にしなければならない。都会に住むならば、都会の豊かなサービスを享受できるが、同時に、劣悪な住環境を甘受しなければならない。
郵政をはじめ民営化に反対する人々の平等主義が通用しないのは、それが今日の日本の巨大な財政赤字を作ってきたということにある。
人が利用しない駅に新幹線を止める。人がいない地域にまで道路を作る。
全国に新幹線と高速道路を!という理念を先行させて、採算を度外視することは、結局巨額の赤字という形で国民に跳ね返ってくる。
「神はあなどられる方ではない。種をまけば、その刈り取りもすることになる。」
という御言葉は真理である。
人間は、その取った行動の責任を負わねばならない。
採算を度外視する行動は、すべて無責任の行動である。
全国に平等のサービスを!などどんなに美しいスローガンであっても、それが現実的でない場合に、それは悪の思想である。
自分の殻に合わせて穴を掘れないカニや、自分の体の大きさに合わせて巣穴を作れない鳥は外敵に侵入されて食べられてしまう。
神の創造された世界は、自己責任の世界である。
自分の力量以上のサービスを保証し、またそれをやろうとする民営化反対論者の政治家は、亡国の徒である。
2005年7月23日
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