文化命令を回避したつけを払っている福音派
<O様>
正教会訳の詩篇「聖詠経」も手元にあるのですが、これは、七十人訳の和訳だそうで、番号のふり方がずれています。
そして、いわゆる詩篇151編が、「光栄讃詞」として併載されています。
新約聖書もそうですが、訳文としては、例えば文語訳などより優れていると思います。
さて、使っている聖書に問題があり、ディスペンセーショナリズムで髄まで腐るとどうなるか。
「聖霊派」は、遂に行き着くところまで行ってしまったようです。
1.「預言CAFE」http://ciatk.exblog.jp/
コーヒーと同じように直接預言をオーダーすると、ウェイトレスが預言を録音したカセットテープをサーブするのだとか。
こちらもまた、私の顎関節は脱臼してしまう・・・このままでは嵌頓して、整復不能になってしまう・・・
<tomi>
「敬虔を利得の手段にしてはならない」とあります。
つまり、信仰で金儲けしてはならない。
しかも、預言とは神の御言葉です。それを商売として売るというのは、神への恐れを失った最終的な姿ではないでしょうか。
<O様>
2.ラッシュドゥーニーが、「カリスマ派はバアル礼拝だ」と論破したのは、正にその通りだと言わざるを得ません。
例えばhttp://myhome.cururu.jp/rihabirikoara/blog/list/ct3021
ここに紹介されているカルト教会は、もちろん極端な例ですが、長く「聖霊派」にいた私には思い当たるところがたくさんあります。
「いやしと解放の聖会」「40日断食聖会」「徹夜ワーシップ」etc
按手で人が倒れて卒倒するのを見て、「怖い!」と後ずさりする人のほうが正常で、自己催眠をかけて陶酔して、トランス状態になってしまった「聖霊充満のクリスチャン」のほうが異常なのですよね。
<tomi>
宗教は内面で充足を与えられないと、外面的な行事で代用しようとします。
宗教が形骸化すると、次第に坊主が金ぴかの衣装を着るようになる。
ハデなショーの類は、形骸化した盲目の人々を騙すために行われている。
<O様>
しかし、「福音派」も似たりよったりです。Mr.Greyはいつの間にか真っ黒になっています。
ウェスレアン・アルミニアン派の著名な先生の著作を読み直してみると、「律法の要求からの解放」「クリスチャンの中には、律法と恵みは共存できない」「十字架によって全人類は救われた」のオンパレード。
<tomi>
アルミニウス主義は、律法を恵みと考えることに失敗しています。
法と聞くと全部「拘束」「独裁」をイメージするのは幼稚な精神。
法は、人間のためにある。
道路が法律によって拘束されていなければどうなるでしょうか。
危なくて車を運転できません。交通規則があるから安全に通行できる。
神の法は、人間が安全に生活するためのものなのです。
<O様>
改革派・長老派は、アルミニアン化しているか、リベラルか。
「トータルカウンセリング」の田中師は、所属教団を離脱したとかで、しかも近日アメリカに亡命するらしいです。
カリスマ派カルト教会の「偽使徒」やハル・リンゼイと同じ道をたどっている。
やりたい放題で、後は野となれ山となれ。
「トータルカウンセリング」のマニアは、人と話をする時に、すぐ「カウンセラー」になります。
自分が霊的にも心理学的にも上だと信じて疑わないから、話し相手は皆「クライアント」。
完全に洗脳されてしまっている。
「デボーション」や「1時間祈りましょう」に熱中すると、ラッシュドゥーニーかゲイリー・ノースが言ったように「霊的パリサイ人」になって、他の信徒を見下げるようになる。
どれもこれも、私の身近で見聞きしてまいりました。
そして「デボーション」を日本に導入した韓国人宣教師Pは、セクハラ事件をおこして母国へ逃走したが、ほとぼりがさめてまた日本へ戻ってきた、そして大の仲良しがOTとOR牧師。
<tomi>
20年前、P牧師の訓練会に出たことがあります。
デボーションなるものがはやっていました。
彼らの判断に使う言葉:「あの牧師は霊的だ」「霊性がすばらしい」・・・
「霊的」とか「霊性」って何でしょうか。
デボーションをすると霊的なのでしょうか。
独特な歌を歌って瞑想のようなことをしろと。
私は、福音派に現れた様々な運動が、「重要な問題を回避するための逃避策」にしか見えません。
その重要な問題とは、「世界を御言葉によって統治せよ」との文化命令です。
福音派はディスペンセーショナリズムを採用した。なぜ採用したのか。
責任を回避したいから。
自分の腕や足で仕事をしようとしない。
支配をノンクリスチャンにゆだねた。
責任を回避し、宗教的領域に逃げた。
問題を直視したくない。
そのために、いろんな運動を作ってごまかしている。
つまり、福音派は、ニートなんです。
仕事をしたくない。社会に出たくない。働きたくない。だから、家に閉じこもる。
福音派のキリスト教とは、キリスト教ニート派なのです。
ニートが精神的に健全になれるはずがない。問題が山積している。
心理学なんてのも、この問題回避の手段です。
ルカ19・13「商売しなさい」は、KJVでは「占領せよ(Occupy)」です。
神は僕に金を預けて「占領せよ」と言い残して旅に出る主人のようなお方。
我々は、地を従えるために召された。独自の学問体系を築き、地上を御言葉に基づいて支配する気持ちがなければ、捨てられるだけです。
福音派は、文化命令を回避して夢想の中に留まることを選んだつけを払っていると考えています。
2009年8月17日
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