無償の愛は社会秩序を崩壊させる


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責任とは双方向であり、一方通行ではない。

一方が義務を果たさない場合には、それを果たすように要求する権利があります。

被害を加えた人にはそれを賠償する権利があります。

よく「イエスは打たれるばかりで抵抗しなかった」ということが、いかなる抵抗をも禁止することの命令のように見られていますが、まったくの間違いです。

イエスは、裁判の席で殴打した人に向かって「なぜ私が何も悪いことをしていないのに殴打するのか」と抗議されました。

イエスが、黙々と裁きに従ったのは、抵抗の後のことです。

神にゆだねられた後です。

私たちは、人間的な努力をして、理不尽なことに対抗する必要がありますが、それがもはや通用しない状況であれば、神にゆだねることです。

あとは神がやってくださる。

たとえば、自分の近所にうるさい音を立てる住民がいるとします。その住民に対して抗議する必要があります。裁判に訴えることも含めて何らかの対抗策をとるべきでしょう。

しかし、それも通用しないならば、あとは神にゆだねて裁きを待つことです。

預言者は、神によって使わされて必要なメッセージを伝えましたが、それが通用しない、効果がないと分かると、神にゆだねました。

抗議も、抵抗も、訴訟もしてはならないという教えは、社会秩序を乱す謬説です。

我々は、悪には正しい裁きが下るように、しかるべき権威に働きかけるべきです。そして、社会に正義が維持されるために努力すべきです。

 

 

2010年5月22日

 

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