メシアニック・ジューは異邦人神学を尊重すべきだ
(1)
今、メシアニック・ジュー神学の導入によって新しい地平が開かれているのは事実だ。
律法や祭りなどに関する重視。
しかし、注意しなければならない点がある。
それは、異邦人神学の否定である。
メシアニック・ジューの人々は、ルターはユダヤ人迫害者だという。
ルターは確かにユダヤ人批判をした。
しかし、ルターの働きを全否定するのはよくない。プロテスタントの宗教改革をはじめた意義は大きい。
また、メシアニック・ジューの人々は、諸信条について否定的なところがある。
ニケア会議などの古代会議において、たしかに律法から離れ、キリスト教からユダヤ的要素を払拭する傾向があったことは否めないが、しかし、これらの会議を通じてキリスト教の教理が明確化した事実も否定できない。
歴史的諸信条を全的に拒むことは非常に危険である。
たとえメシアニック・ジュー神学であっても、2000年のキリスト教の教理的発展の恩恵の下にいるのだから、教会史に対して傲慢になってはならない。
(2)
メシアニック・ジュー神学の決定的な欠陥は、ディスペンセーショナリズムから生まれたという点にある。
だから、ユダヤ人の教師が何を言おうと、ディスペンセーショナリズムの誤謬を引きずっていることに違いはない。
彼らは、第三神殿の再建を現代でも求めている。
第三神殿とはクリスチャンの体であるのに。
もう一度、石でできた神殿が建設するのだという。
そして、イスラエルを中心に再臨のキリストが世界を支配するのだと。
いいですか。
イスラエルは、紀元70年に滅んだ。そして、たとえ現在ユダヤ人がそこに集まっているとしても、そこが再び世界の聖地になるわけではない。
なぜならば、「ここが聖地、あそこは俗地」という区別は、旧約時代において終了したからだ。
キリストは「天地にある一切のものを十字架において神と和解された」(コロサイ1・20)のだ。
万物は法的に神と和解している。だから、万物は聖い。
世界は神の王国となり、聖俗の区別は「もの自体において」消滅した。
残っているのは、「心における」聖俗の区別だけだ。
つまり、「汚れた心、不純な動機で行うと汚れる」のだ。
パウロは「何でもしてよい」と言った。しかし、「神を中心としない行いはすべて汚れている」とも言った。
ものそのもの、事柄それ自体における聖俗区別は存在しない。
だから、ユダヤ人は聖なる民族、異邦人は俗なる民族という区別も存在しない。
キリストにあり、その主権を認め、クリスチャンになった人々は聖く、そうでない人々は汚れている。
これが新約時代における聖俗の区別の基準だ。
だから、今日のディスペンセーショナリズムの「イスラエル建国、神殿再建、ユダヤ人血族探し」は、異端である。
(3)
では、「ユダヤ人は捨てられてもはや契約とは関係なくなったのか」という疑問が起きるだろう。
ちがう。
彼らは「召しと賜物は不変」なので、「選びの中にいる」。
彼らは心を変えることによって、契約の中に入る。
ユダヤ人は必ず復活する。
置換神学は、「もう彼らは関係がない」と言う。しかし、我々は「神の選びが不変である以上、彼らが捨てられることは絶対にない」と主張する。
(4)
整理すると、
今日においてユダヤ人は聖なる民、異邦人は俗なる民というような区別は存在しない。民族的経綸の時代は終わった。
いまや基準は、「心の向き方」にある。
神を心から崇拝する人々は契約の民、聖民である。
じゃあ、ユダヤ人はもはや民族的存在意義を失っているのか、というと違う。
ユダヤ人はアブラハムにおいて選ばれ、その選びは永遠の効力を持っているので、再び契約の中に入る。
彼らが契約の中に入っても異邦人との間に一級市民、二級市民の区別があるわけではない。
ただ、御言葉に親しんでいる期間が長く、取扱いを受けてきたため、異邦人との間に理解力の違い、実力の違いなどは生じるだろう。
これは、クリスチャンホーム出身者が、出身のゆえに他のクリスチャンよりも格が上であるということがないのと同じである。
しかし、クリスチャンホーム出身者は御言葉に慣れ親しんでいる度合いがそうではない人々よりも多いため、理解力や様々な実力において差があるのは当然だ。
もの自体、血統などで区別をつける時代は終わった。
(5)
神殿を建て、昔の祭司の子孫を探すメシアニック・ジューの試みは間違っている。
彼らはこれによってユダヤ教に先祖がえりすることになる。
ユダヤ教に帰ることは、ヘブル書において厳禁されており、マイナーな罪ではない。
新約時代にふさわしい神学を身に付けるために、異邦人の世界において発達した神学の知識をきちんと身につけるべきだ。
2008年1月25日
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