小さなことにおいて忠実な者は大きなことについても忠実である


歴史や世界はクリスチャンのためにある、というと、「何を根拠にそんなことを言うのか」と言われるかもしれない。

イエス・キリストが天地の王となり主権者となったと宣言された時に、世界はイエス・キリストのものになったのである。

そして、クリスチャンの集合体である教会は、イエス・キリストの体であるから、クリスチャンもイエス・キリストにあって世界の所有者となったのである。

誰でもイエス・キリストを信じるならば、世界を所有し、相続することができる。

イエス・キリストを信じない人々は、世界の所有者となったイエス・キリストにつながれていないので、所有者になれないのである。だから、ノンクリスチャンは、非相続者である。どんな大金持ちであっても、キリストにつながれていなければ、その人は財産を没収される。

「それでは、クリスチャンは今、ノンクリスチャンの財産を奪うことが許されると考えているのか?」という疑問が起きそうだが、「ノー」と答える。

クリスチャンが他人に属しているものを手に入れる方法は、「合法的」でなければならない。

つまり、労働と相続によるのである。略奪はクリスチャンの方法ではない。

なぜならば、聖書には、「柔和な者は地を相続する」と言われているからだ。

所有は「柔和」な者に与えられる。武力に頼る者には与えられない。

だから、我々は、覇権拡大、所有権拡大の方法として、商売・貿易・労働を尊ぶべきなのだ。

何かを手に入れたいならば、相手との合意に基づいてそうすべきだ。契約を結んで、対価を規定どおりに提供することによって必要なものを手に入れる。

これ以外の方法は、違法であり、クリスチャンとしてふさわしくない方法である。

革命や侵略や陰謀や詐欺はサタンの方法である。

「世界はクリスチャンによって支配されるべきだから、結果がよければ、手段はどうでもよい。神は目をつぶってくださるだろう。」というような人間は、偽預言者である。

ホンモノのクリスチャンは、個人的な生活の中において、「神にはごまかしは通用しない」ということを嫌というほど体験させられる。合法的な方法以外通用しない、ということを学んでいる。

旧約律法には、「落し物を着服してはならない。持ち主に必ず届けなければならない。」という規定がある。

不法に入手したものは、入手した人から祝福を奪い、その他の領域において、たとえば、仕事において失敗させられる。

たとえば、NHKの受信料をごまかす人や、CDやソフトの不正コピーなどをしてもうかった気になっているクリスチャンを時々見かけるが、愚か者である。

そういうごまかしをすることによって、どこかでツケを払わされるのだ。それだけではなく、生活全体が呪われるから、総合的にみて大損をすることになる。

小さなことで不正をやる人は、大きなことでも不正をやるものだ。

だから、小さなことで不正をやることになれている人は、小さなところで人の不信を買い、結局、大きなことにおいて社会的な信用を失うのだ。

しかし、たとえば、ボールペン一つでも人のものと自分のものとの区別をきちんとして、間違って持ち帰ったペンを持ち主に返すならば、思わぬところで信用を勝ち取ることになる。

ヨセフは、エジプト人の看守や主人から任された小さな仕事に忠実なることによって、次第に大きな仕事を任されて、ついには、王の摂政の位についた。

「小さなことにおいて忠実な者は、大きなことについても忠実であり、小さなことにおいて不忠実な者は、大きなことについても不忠実である。」というイエスの御言葉を心にとめる者になりたいものである。

 

 

2004年8月10日

 

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