神の自己認識こそ人間の世界認識の土台である2
世界が創造されない状態において、神以外の存在は皆無だったのだから、認識とは「神の自己認識」以外にはない。
歴史が始まる前の世界において、神が認識する対象は神ご自身以外に存在しないのだから、認識の出発点を神の自己意識以外に置くことは違法である。
創造以後、神は被造物に外界を認識する能力をお与えになった。それゆえ、それらの認識能力は「派生的認識能力」であって、「根源的認識能力」ではない。
被造物である我々は、それゆえ、「派生的認識能力」に頼ることはできない。
現代人は、ものごとを判断したり評価する際に、起源を問わない傾向があるが、これは間違いである。
起源を問わないことは、すなわち、「正当な理由なく」事を行ってもよいと開き直ることを意味する。
たとえば、進化論者は、生物や人間の起源を偶然に求めるが、我々が偶然に生まれてきたのであり、そこに超越者の意思というものがまったくないとすれば、道徳律などあるはずがない。
それゆえ、進化論者は「あなたのやっていることは道義上問題がある」とは一切いえないはずだ。
しかし、進化論を信じるノーベル賞受賞者が戦争反対論を唱えたりするというようなことを頻繁に目にするのである。
進化論者にとっての道徳律とは「環境適者が生き残り、環境不適者は滅びる」というものだけだ。だから、ワイマールにおいて強者であったヒトラーが弱者であるユダヤ人を虐殺することを非難はできないはずだ。
進化論者は、起源を問題にする一方で、その起源に基づいて自分の思考を行うことを避け、あたかも有神論者であるかのように道徳律を説いている。これはもう開き直りでしかない。
物事の起源から説明できなければ、その意見はことごとく違法である。それゆえ、現代のほとんどの思想は、発言する権利がないのにもかかわらず発言する違法な「開き直り」なのである。
創造論に立つ以外に、首尾一貫して世界を解釈することなど不可能である。
現代人の認識論の欠陥に人類はそろそろ気付くべきである。
2004年5月9日
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