歴史と地理を幕屋・神殿の構造に基づいて解釈する
この世界は、神の被造物である。進化論のように偶然に出来たと考えてはならない。宇宙も地球も神の計画のもとに意味を持って創造されたのである。
だから、我々は、時間と空間の秩序の中に神の御心、意図を探るべきである。それは、けっして不合理なことでもトンデモなことでもない。
なぜ神殿や幕屋、そして、エデンの園の入り口は東にあり、至聖所は西にあったのだろうか。
もちろん、それは太陽と関係がある。
東から昇って西に沈む太陽は、礼拝者を象徴している。
神殿や幕屋は神のいらっしゃるところであり、天国である。エデンの園は神の住まいであった。だから、東に入り口があった。
神殿の礼拝者は、太陽と同じように、東から西に向かって進まねばならなかった。
それゆえ、一日とは、礼拝に始まり、礼拝に終わる。幕屋に入り、至聖所に達して終わる。
ここから時間の意味が分かる。
時間とは、神礼拝のために存在するのである。朝が始まると、神への礼拝が始まり、夕方になると神への礼拝が終わる。
聖所には光(燭台)があったが、至聖所にまったく光がなかった。これは、夜の到来が至聖所に入ることを象徴しているからである。
一日がそのようなものであるならば、一年もそうだろう。一年の初めは礼拝の始まりであり、一年の終わりは礼拝の終わりである。
歴史全体についてもこのことが言えないだろうか。
歴史の始まりとは、幕屋の囲いに入ることであり、歴史の終わりは至聖所に入ることである。
キリストは、教会の頭であり、礼拝者の代表である。キリストは、幕屋の囲いの中に入り、入り口でご自身をほふられ、その肉を祭壇で燃やされた。そして、その血をたずさえて、大祭司として聖所に入り、最後に至聖所に入られ、礼拝を完了された。
キリストは天地を照らす光、太陽である。太陽はキリストを象徴する。
人間の歴史とは、無意味に進んでいるのではなく、「神礼拝を完成する」という目的をもって進んでいるのだ。
だから、人類は至聖所に入るべきである。つまり、全世界の民族が契約の中に入り、礼拝者となって、至聖所において主を礼拝すべきである。
世界の諸民族はキリストの弟子となる。そして、歴史の終わりに、神を礼拝するようになる。今は反逆していても、いつまでもそうであるとは限らない。必ず諸国民は主を礼拝する民となる。人類が至聖所に入る時代が必ず来る。
時間について述べたが、空間についてはどうだろう。
この地球は幕屋の構造になっているのである。
なぜならば、地球は神礼拝のために創造されたから。
だから、地球にも聖所と至聖所にあたる場所がある。
もとはパレスチナであった。
パレスチナはエデンの園と同じように要塞であった。
それは、城壁に囲まれていた。どのような城壁だろうか?川と海である。
北はユーフラテス、東はヨルダン川、南はナイル川、西は地中海である。
水は城壁である。
この旧約時代の至聖所は、紀元70年にその地位を失った。
では新たにどこが至聖所として選ばれたのだろうか。
私は日本だと思う。
日本は水に囲まれた自然の要塞である。
コロンブスは極東にユダヤの離散部族がいると信じ、航海にヘブル語のできる人間を連れていった。
そして、アメリカについたときに、彼は自分が極東についたと考えていた。オリノコ川を見た彼が、「この川はエデンの園から流れているはずだ」と言ったという(The International Standard Bible Encyclopedia, 1915)。ということは、彼は極東にエデンの園があると信じていたのだ。
私は彼が極東の地ジパングを探るのに、東から西に向かったのには宗教的な意味があると考えている。
ヨシュアに率いられたイスラエル人が、パレスチナに入る際に、南からという最短コースを取らずに、わざわざヨルダン川の東に行って、そこから西に向かってヨルダン川を渡ってパレスチナに入ったのは、それだけがエデンの園に入る方法だったからであろう。
つまり、エデンの園に入るには、東から西へ、太陽と同じように入らなければならなかったのである。
おそらく神の歴史の筋書きでは、人類は最終的に日本を知り、日本という至聖所にある御名を礼拝するようになるのだろう。
日本は原爆という十字架を背負った世界で唯一の国である。
諸国民が滅びないために、避雷針の役割を果たしたのである。
日本こそ、世界歴史の終着点としてふさわしい国である。
2007年3月24日
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