「目には目を」の原則を社会に適用せよ


1レベルの罪を犯したら、1レベルの刑罰を受ける。

10の罪を犯したら、10レベルの刑罰を受ける。

1000円盗んだら1000円返す。

10000円盗んだら10000円返す。

これは、当たり前。

だから、故意の殺人に対しては、殺人で返すのが当然。

その殺人は、国が行う。(*)

神が国という制度を設定されたのは、「義」のためである。

正義を維持するため。

人々を健康にし、幸せにするために国は存在しない。(この考えを福祉国家という。)

あくまでも国の義務とは、正義を維持し、社会の堕落を防止することである。

そのためには、法律に違反した人を処罰しなければならない。

その処罰は、同等のものでなければならない。「目には目を」の原則である。

バランスは絶対に維持しなければならない。

そうしないと、社会全体が病気になる。

被害者のほうが被害が大きなまま終わるということになれば、犯罪者のほうが優遇されているということになる。

もう一つ、目には目をの原則を適用しなければならない理由は、この同害刑法が聖書の救済観の基本だからだ。

神はすべての罪に対して同等の刑罰を下す。

我々はやった罪の大きさに応じた刑罰を受ける。

だから、地獄においても、火炎の熱さが違う。

非戦闘員に対して原爆投下を決定した人間たちは、同じ被害を受ける。

人間社会の網の目をくぐりぬけても、神の裁きから逃れることは絶対にできない。

神は、我々が犯した罪に応じて刑罰を下される。

そうしないと、神の秩序が崩壊する。

神は絶対であり、法制定者であるから、法に違反した者を裁かずにはおれない。法を制定した者自身が違反を許すならばもはやその者には統治能力がない。

そのような社会は崩壊する。

だから、この「目には目を」の原則は、全宇宙を貫く基本原理の一つなのだ。

キリストが十字架において処刑されなければならなかったのは、人間が犯した罪と同等の刑罰を受けるためである。

キリストは人間であると同時に神である必要があるのはこのためだ。

一人の人では、一人分の命の値しかない。

だから、奇特な人がある人の罪を負って死んだとする。しかし、その人の命は、その人の分だけである。もう一人罪人が現れても何もできない。

キリストは神であるから、命の値が絶対であり、限度がない。だから、多くの人間の罪を贖うためには、神である必要が絶対にある。

キリストを単なる人間としかみないものみの塔は、それゆえ、異端なのだ。

国は、神の前に正しい統治者であるためには、この「目には目を」の原則を社会の隅々に適用しなければならない。

つまり、犯罪者に同等の刑罰を執行せよ。殺人犯には殺人で臨め。


(*)
ちなみに「殺人はどんなものでも罪だ。国家が行っても。」というクリスチャンがいるが、じゃあ、神は殺人者で罪を犯すのか。

神は生殺与奪の権利を持つと聖書に記されている。ソドムとゴモラの人々は、男色のために火で滅ぼされた。

その人は、「ひどい」というのか。

神は人を殺す。神は罪を犯した、と。

こんな人は、もはやクリスチャンではない。

神に文句を言うなら、教会に行く意味がない。

神への絶対献身は、クリスチャンの最低条件である。

クリスチャンになるということは、王を代えることを意味する。

自分が心の王座に座っていたのが、神に座っていただく。これが、クリスチャンになるということだ。

だから、「聖書ではそうかもしれないが、私は、・・・」という人は、クリスチャンではなく、死後地獄に行く。

クリスチャンをクリスチャンたらしめているのは、「罪を犯さない」ということではない。

罪を犯すことは避けられない。思いにおける罪を含めたら、クリスチャンでも一日ものすごい数の罪を犯す。

罪を犯さないことがクリスチャンの特徴ではなく、「罪を犯しても、悔い改めて再起をする」ことである。

深く反省して、神の前に頭をたれることである。

これがクリスチャンの第一の特徴である。

だから、聖書なんてどうでもいいなんていっている人は、まったくクリスチャンでもなんでもない。

そんな人々の言うことを信じてはならない。

 

 

2010年3月1日

 

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