ヒューマニズムの価値転倒の犠牲者を最小限に


ネットを見ていると、殺人犯など凶悪犯罪者に対する裁判所の判決の甘さに相当な不満があるようだ。

当然だろう。自分の身内が惨殺されても、少年院1年、懲役10年、20年なんて。

こういった判決は、ヒューマニズムのシステムの限界を露呈している。

現代ヒューマニズムは、進化論的世界観に基づいており、善悪の絶対的基準を認めない。そのため、「あわれみ」という言葉すら絶対的な定義ができない。

そのため、ご覧のように、殺人犯へのあわれみが、被害者へのそれよりも大きくなるというような倒錯が起きる。

「倒錯」。

そう。倒錯なのだ。

倒錯は、偶像礼拝の特徴。自分よりも低位のものを崇拝するのが偶像礼拝である。人間のような高等被造物が、石や木などの低位の被造物を拝む。

偶像礼拝に伴って、自分の内部の価値体系が乱れる。価値づけの基準が失われ、価値付けがどんどん乱れていく。

人間は正しい神礼拝から遠ざかれば遠ざかるほど、物事を正しく価値づけられなくなる。

この裁判所の判決などは、日本の社会が偶像礼拝化したことの結果である。

進化論も、偶像礼拝の体系であり、これを信じると、人間と他の被造物の間に明確な一線を引けなくなり、鯨やイルカの命を救って、人間の胎児を殺すというような本末転倒が起きる。

裁判所が殺人者やレイピストのかたを持ち続け、社会の混沌化が進めばいずれ、日本人も何かの絶対的基準が必要だということに気づくようになるだろう。

しかし、私はそのような気づきが起きるまでの間に犠牲になる無辜の市民を気の毒に思うのだ。

 

 

2008年4月16日

 

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