復活の信仰を働かせよ
(1)
仏教の葬式を見て、本当に気の毒に思う。
希望がない。死別、絶望しか感じない。
私は、仏教全体に絶望の臭いを感じる。
仏教には復活の教理がない。死に勝利するという発想がない。
しかし、聖書的キリスト教において、死は敗者である。
イエス・キリストが死に勝利して、復活されたのだ。
だから、イエス・キリストにつく人々、つまり、イエス・キリストの契約の中に入った人々(クリスチャン)は、死なない。
肉体を離れた瞬間に、御霊の体という永遠の体を与えられる。つまり、体が切り替わるのである。だから、死なない。
この体は、永遠に生き続ける。
だから、クリスチャンにとって、葬式とは絶望ではなく、希望である。勝利の儀式である。
イエス・キリストとともに死に勝利して、新しい不死の体を与えられた記念式である。
復活体を与えられた人々は、イエス・キリストとともに天に生きている。
(2)
復活の教理の素晴らしさは、単なる死そのものだけではなく、あらゆる否定的なものに対する勝利である。
死は、あらゆる否定的なものの王様である。
倒産、離婚、病気、怪我、失敗、失業、・・・
あらゆる否定的なものの頂点に君臨するのが死である。
キリストは死に勝利されたのだから、その手下どもであるこれらの否定的なものにも勝利されたのだ。
我々が経験する倒産や離婚や病気などは、一時的現象に過ぎない。
我々が継続して戦いを挑むときに、これらは徐々に克服されていく。
すでにこれらの否定的なものは、法的な力を失っている。
つまり、我々に法的には勝利できない。
なぜならば、キリストが我々の代表としてこれらに勝利してくださり、「法的に」これらを征服してくださったからだ。
占領について考えて欲しい。ある国が戦争をして、他の国を打ち負かしたならば、敗者は、法的に勝者の手下である。
その国の中にいるゲリラがいくら活動しても、法的に勝利している以上、いずれは征服される運命にある。
神はキリストを通じてサタンと死に勝利された。それは、決定的な勝利である。十字架と復活で万事完結したのである。
キリストは、死を法的に征服された。
だから、キリストの体であるクリスチャンには、死を征服する法的権利がある。
あらゆる否定的なもの、暗い考え、暗い事柄、・・・は、法的に征服された。
だから、我々はそれを「実際に」征服しなければならない。
歴史を通じて、我々は死を征服する過程にある。
医療技術の進歩により、様々な病気が克服されるのは、復活の業である。
科学技術の進歩も同じである。
あらゆる理不尽な迷信や不合理、誤謬も征服される過程にある。
なぜならば、我々にはそれらを征服する権利があるから。
我々が活動すればするほど、法的な事実「死の決定的敗北」は実現していく。
(3)
サタンは、我々にこのような考え方をしないように惑わしの霊を送る。
そして、ディスペンセーショナリズムのように、「我々が何をしても無駄だ。この世界はサタンの世界なのだから」などという非聖書的な教えを吹き込んで、我々の力を封じ込めようとしている。
我々に信仰がなければ、契約的力は発揮できない。
契約的力は、信仰によってキリストとつながっている時にのみ発生する。
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。 (ヨハネ15・4-5)
2008年7月22日
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