背教の罪には悔い改めの余地はない


聖書では、「過失」は許されるが、「故意」は許されない。

故意と言っても「出来心」で行ったものは悔い改めて許されるが、執拗に確信を持って行われる罪は許されない。

一度クリスチャンになって、その後それをやめ、キリスト教批判、教会批判、牧師批判などをやっている人間は、二度と立ち直れない。


もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。
ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。
だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。
まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。
私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。」、また、「主がその民をさばかれる。」と言われる方を知っています。
生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。(ヘブル10・26−31)

「神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者」

つまり、背教者である。

背教者には、「罪のためのいけにえは、もはや残されてい」ない。

「ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはない」。

過失の罪であれば、悔い改めによって立ち直ることもできるが、故意の罪、しかも、すべての知識を得ながらイエス・キリストを否定する罪は、絶対に許されないので、あとの人生は、裁きの火の恐怖におののくだけの人生である。

もちろん、そのような背教者の死後は、地獄である。

地獄とは、死んだ瞬間に「あっー!決定的な間違いを犯した」と気づく場所である。

神から完全に見捨てられた場所。

生きている間は何らかの恵みがある。試練があっても乗り越えられる。

しかし、地獄とは、永遠に苦しみが続き、そこから逃れることは絶対にできない。

「その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』

アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。
私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』」(ルカ16・23−24)

ここで描かれている場所はハデスであって、地獄の待合所のような場所であり、本格的な地獄ではない。

地獄とは、さらに厳しい場所である。

地獄では、体を与えられて苦しむ。

インターネットという匿名性の高い場だからといって、何でも許されると考えたら間違いだ。

神はその発したすべての言葉について責任を追及される。

自分が悪いとわかっていながら行うキリスト教批判、牧師批判、教職者批判、正統的教理批判に対する報いは、「悔い改めの余地のない永遠の刑罰」である。

 

 

2010年6月14日

 

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