戦いを放棄させるのは敵の策略である


実際に戦ってみたら分かることは多い。

実際に、我々を指導した世代の人々、牧師、伝道師と話をしてみなさい。

私の場合、ディスペンセーショナリズムの教会で洗礼を受けたこともあり、親族にディスペンセーショナリストが多いから、このシステムがどのような悪影響を及ぼすか知っている。

今日もこういわれた。


この世のことは、この世にまかせて、クリスチャンは信仰のことだけやっていればいいのだ。

この世のことをサタンに任せていれば、信仰だけやっていればいいとすらいえなくなるだろう。

サタンと戦わずに、彼らの策謀を許せば、彼らはキリスト教を破壊したいわけだから、警察を動かして信仰者を逮捕、投獄するだろう。

「この世において戦わなくてもいいのだ」というのは、サタンのささやき。

ある外国が、「日本は防衛などしなくていいのですよ。」といって、それに対して「そうですね。もう自衛隊なんか廃止します。」といったら馬鹿だろう。

ディスペンセーショナリズムとは、このような教えなのだ。

もうすぐ再臨です。再臨になれば、キリストが世界を統治してくださる。我々が今、この世を変えようとしてがんばっても、反キリストがすべて粉砕すると聖書にあるのだから、無駄なこと。我々はただ黙ってキリストがこられるのを待つしかない。

黙って待っているうちに、サタンは世界を征服し、そして、クリスチャンを迫害しはじめるだろう。

迫害が始まって、再臨と携挙を待っていたクリスチャンは「あれ、携挙がないぞ。どうなっているの?」と驚くだろう。

そのときはすでに遅い。

ディスペンセーショナリズムは、敵の騙し。

我々を縛って戦えなくさせるための洗脳である。

だから、私がこのように叫んでいる言葉を無視しないでほしい。

 

 

2009年8月28日

 

ツイート



 ホーム

 



millnm@path.ne.jp