今教会に流行している可能性思考はヒューマニズムである


「聞きなさい。『きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。』と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです。」(ヤコブ4・14-16)

ロバート・シュラーは、「可能性思考」を唱えるので有名である。昔彼の教会に行ったことがあるが、いたるところに「可能性思考者のための」というような内容の形容詞がついていたことを思い出す。

彼の本は何冊か読んだが、決定的な欠陥は、「主のみこころなら」という一言が欠けていることだ。

「できると信じればできる」というのは一般論としては正しい。信じることのできる人はノンクリスチャンであっても、信じない人よりも成功する可能性は高い。

しかし、どんなに積極的・肯定的な考え方ができても、「主のみこころなら」という基本姿勢がなければ、神中心であるクリスチャンとして正しいとはいえないし、また、それは神に創造された人間のあり方として相応しいものではない。

なぜならば、キリスト教は人間の幸せを中心としているのではなく、「神の幸せ」を中心としているのだから。

我々が行うすべてのことについて、我々は「主のおかげで…できました」といわねばならない。

常に栄光は神に帰すべきである。

ヤコブは、「主のみこころなら」という神中心の態度を欠いた商売活動を「高ぶり」であり「悪いこと」と呼んでいる。それゆえ、我々は、商売だけではなく、政治も芸術もあらゆる領域に関して、「主のみこころなら」という謙遜な姿勢を持つべきである。

ロバート・シュラーにしても、日本の可能性思考論者の有名牧師にしても、その説教から受けるのは、「人間中心」の態度である。

一般のノンクリスチャンにも受けようとしているのか、「主のみこころなら」が出てこない。

今教会に流行している可能性思考は、人間の幸せを第一に求める世俗主義、ヒューマニズムであり、キリスト教の本質から大きくずれている。

 

 

2004年3月21日

 

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