反文化の罠


「一神教=排他的」という公式が最近流行っている。

そして、イスラム教とキリスト教を同じ一神教というカテゴリーの中に入れて、「どちらも一つの神、一つの真理を標榜し、他の思想、宗教を排除するからだめだ。」と言う。さらに、「日本は多神教だから寛容だ。世界は日本の多神教に習え」とすら言う人が増えた。

まず、イスラム教とキリスト教という互いに異なる神を持つ宗教を一つのカテゴリーに入れてしまう粗雑さにもあきれるが、「排他的な思考」をも拒否するという、文化の基礎まで否定する意見には閉口してしまう。

真理が一つである以上、思考や議論に排他性はつきものだ。

正と反を対立させる思考法は、学問の基礎であり、これを否定したら科学は成立しないし、文化そのものが破壊される。

「イエスはナザレ人だ」という命題が正しければ、「イエスはナザレ人ではない」という命題は正しくない。

「イエスはナザレ人であるし、同時にナザレ人ではない。」というのは矛盾であり、間違いである。

たしかに「ナザレ人」の定義を変えれば、この命題は正しい。

たとえば、「ナザレ生まれという意味ではイエスはナザレ人ではないが、ナザレに住んでいるという意味ではナザレ人である。」となる。

しかし、同一の定義の場合、これは成立しない。

数学も物理もこの対立的思考法によって成立しているのである。

もしこの思考法が否定されたら、犯罪捜査などできない。

「おまえはあの時、犯行現場にはいなかった。しかし、おまえは犯行現場にいた。逮捕する。」なんていう理屈が成立したら、社会はめちゃくちゃになる。

「犯行現場にいなかった」ということが真理であれば、「犯行現場にいた」ということは否定されるのだ。

どちらも真理などということはありえない。

欧米のネット上での議論は、「おれは正しい」「いや、それは間違っている」という、真理をめぐって妥協のないやり取りがあることを指して、ある人は、「これは一神教の影響で、排他的でレベルが低い」という。

じゃあ、日本の「多神教的寛容的な議論」とは、何か。そのレベルが上である議論とは何か?

「まあまあ、喧嘩しないで。Aも正しいし、非Aも正しい。どちらも『あり』ということで、落ちつきましょうや。」というのがレベルが高い議論なのか?

こんなの学問の世界で通用するかぁ?

ビルの建設現場でも、法廷でも、論理が支配している。論理が支配しなくなったら、ビルはすぐ倒れるし、無実の人が有罪宣告されるだろう。

ヘーゲル弁証論の非対立的思考法は、東洋の非論理思考、重層的思考を励ました。

しかし、それは進歩ではなく、堕落である。

フランシス・シェーファーが述べたように、ヘーゲル以降、人類は「絶望の境界線」を超えた。

今にわかに現れた日本の似非知識人による「非論理礼賛」と「多神教礼賛」は、幼児的自己愛に基づく神秘主義であり、反文化の罠である。

 

 

2005年5月12日

 

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