大衆化がもたらす文化的弊害


後藤田氏や中曽根氏の最近の発言を聞き、今の指導者たちと比べると、ずいぶんと政治家の質が落ちたなあ、と感じる。

そもそも最近の政治家に、その内面からにじみ出るべき教養や品性を感じられない。彼らが大所高所から物事を見ることができているとは感じられない。森とか小泉とか、片山とか小林とかに、哲学や歴史や宗教などに対する深い造詣を感じることができるだろうか。

この日本人の質の劣化は映画にも現れているように思える。

かつて日本映画は世界の模範だった。黒澤の映画は、ルーカスやスピルバーグなどに多大な影響を与えた。

日本映画に登場する役者の演技ひとつとっても、昔と今じゃ格がまるで違う。

小津映画では、登場人物は感情を伝えるためにことさらに大きな動きをしない。ちょっとした仕草で相手に気持ちを悟らせる。

しかし、今の映画は、やたらに感情を剥き出しにする。私は、北野映画を見ようと思わない。あまりにも野卑だから。動きが粗暴で、やたらに感情を表に出し、無意味に残虐なシーンが多い。なんであんな映画が海外で受けるのかまったく分からない。

私は、どの世界でも、大衆化が進むと多くのよいものが失われると考えている。

たとえば、昔、まだ受験が一般的ではなかった頃、受験勉強にはロマンがあった。予備校の講師は、受験のテクニックなど教えずに、学問の深みを伝えようとしていた。

しかし、受験者が増え、受験産業がビジネスとしてとらえられると、しだいに予備校から大学の教師の姿は消え、プロの予備校講師が幅をきかせるようになった。

たしかに彼らは受験のテクニックを教えてくれる。しかし、彼らはだいたいにおいて金目当てで集まった人々だから、学問の深みなど伝えられるはずもない。

今の受験界にロマンなど求めることはできない。教えられる側の裾野が広がったために、そのようなロマンを求める雰囲気は教室から完全に消えた。

受験をビジネスと考え、大衆化を図ったことによって失ったものは、教育の高尚さである。

そもそも、生徒が先生を評価するアンケートシステムは、教育の冒涜に他ならない。

聖書は、「生徒は教師を敬え」と教えている。

「父母を尊べ」という戒めは、年長者、その道における先達を敬えとの内容も含まれている。商品のモニタリングというビジネスの手法は、学校の授業には適用できないのである。

聖書という基準を捨てて、ビジネスオンリーに走ることによって、大衆化が進み、それとともに、文化から高尚なものが失われていく。

聖書翻訳においても大衆化の波は押し寄せている。「分かりやすさ」が前面に押し出され、高尚さがどんどん失われている。

「分かる人にだけ分かればよい」という部分はどの分野にも必要だ。

「分からないような書き方をしたものはすべて悪だ」というのは間違った平等主義である。

最少公倍数をとって、低いレベルで平等になっても仕方がない。

文化とは、高尚なものに触れて、低いレベルから高いレベルに自分の感性や審美眼を引き上げてもらうことによって正しく継承されるのである。

ビジネスの「少しでも多く売るために」という理念によって、文化が侵食されないために、我々は、「イエスの身丈に達する」という聖書的目標を固く握り締めるべきである。

 

 

2005年7月25日

 

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