理科系の学生は文科系の学問も学ぶべき


(1)
このHPで悪霊について書くと、トンデモだとか、すぐレッテルを張りたがる人間がいる。

「中世の時代は霊でものを解釈したが、近代になり科学が発達してから霊なんて出すのは間違いということになった」だと?

言っておきますが、科学→霊の否定にはなりません。

科学的思考と霊存在認識は対立命題ではありません。

「科学を信じているのに、神や悪魔を信じるの?」というのは科学を知らないから。

いいですか?

科学とは、「経験したことについて暫定的な結論を出そう」とする立場にすぎない。

極力思弁を排除して、経験的データから普遍的法則や真理を導きだそうと努力するのが経験科学だ。

だから、経験したことのないことや、経験できないことについて、恒久的な結論は出せない。

だから、科学者は「神や悪魔や悪霊は存在しない」とか「悪霊などと言っている人間はトンデモ野郎だ」とも言えない。

もしそんなことを言っている科学者は、自分で自分が主張していることと矛盾したことをやっていることになる。なぜならば、「神や悪魔や悪霊は存在しない」ことを証明できるだけの経験的データを彼は原理的に獲得できないから。

「地球から1億光年離れた○○星の地下300km掘り進んだところに悪霊はいない」ということを証明できない。

経験科学では、キリスト教の奇跡の話、例えば処女降誕、悪霊追い出し、病気の神癒などなかったことを証明できない。

もし「処女降誕はなかった」と断定している科学者がいたら、そいつは似非だから気をつけよう。

(2)
経験科学は、キリスト教の神概念や世界概念がなければ成立しない。

キリスト教は、一人の神が存在することと、世界が、その一人の神が定めた統一的法則によって成立している、とする。

このキリスト教の原理によらなければ、科学はできない。

なぜか。

例えば、多神教について考えよう。多神教では、神々がたくさんいて、宇宙のある部分を支配する神が、その部分だけには異なる法則を働かせているとしたら、地球上で通用する科学法則はそこでは通用しないということになる。

多神教のもとでは、今から20000年前の世界に関して、今通用している物理法則を適用する根拠はどこにもない。

つまり、経験科学は、キリスト教の世界観の土台の上に成立しているから、「いつでもどこでも同じ法則を適用してもよい」という約束事を取り入れることができるのだ。

時代や場所によって法則を適用できなければ、普遍化、一般化を旨とする科学に意味はなくなってしまう。

(3)
だから、キリスト教をトンデモ扱いする科学者は、トンデモ野郎だということ。

理科系の勉強ばかりやって、歴史とか認識論とか宗教とか勉強しないと、科学的原理を万能のように誤解する人間が育つ。

文科系の学生が理科系の勉強もする必要があるように、理科系の学生も、映画を見たり、文科系の本を読んだり授業に出たりして、視野を広めてほしい。

 

 

2008年5月10日

 

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