真の神の国建設とは一心不乱に働くこと


(1)
キリスト教は、霊の話をすると、トンデモだとか、異端だとか言うようになった。

そういう人に聞きたい。

じゃあ、イエスは異端だったのか?と。

イエスは、悪霊を追い出された。

そして、弟子たちに悪霊を追い出す権威を与えられた。

だから、悪霊について語る人間をトンデモ扱いする人間は、聖書から離れてトンデモなくなったのだ。

伝道者の仕事をしていると、悪霊の働きは頻繁に見聞する。

私の友人の電話の留守電にこの世の声ではない声が入っていた。

恐ろしい声だ。地獄の底から鳴り響くような。

それは、彼が導いたクリスチャンの声だった。

何かの霊が入ったのだろう。

彼を怒鳴りつけて分けの分からないことを言っていた。

物体が勝手に移動するなんてこともある。

これは、ある友人の家で本当にあったことだ。

信じられないだろうが、本当に存在する。

かけてあった寒暖計が水平に飛んだり、机の真ん中にあった箸たてが、傾きもないのに落ちたり。

悪霊がやるときは、大きな音を立てる。わざと。

普通に物が落ちた音ではない。

人の注意を引きたがっている霊なのだ。

悪霊の一つの大きな目的とは、「気を散らす」ことだ。

人生は短い。有用な仕事のために時間を使うべきだ。

しかし、悪霊は、それをさせないために、いろんな興味を引くものをちらつかせる。

それは誘惑である場合もあるが、恐怖の場合もある。

妄想に苦しむ人は、無視できる声とかも無視できなくなる。

完全にとらわれていると、恐怖が恐怖を呼ぶ。

人の目に縛られている人は、それから逃れられなくなる。

私は、ネットで何を言われても気にしない。

なぜならば、自滅するから。御言葉に反することをやっていれば、勝手に自滅する。

気にしていたら仕事ができない。

だから、そういう情報には興味がない。

ただ、検索しているときに、Googleで自分の名前などが出てくると読んでしまうこともある。

隙をつかれて、気になって穴に落ちることもある。

しかし、これがサタンの方法だということがわかってから気にしなくなった。

ある知人の仕事場の更衣室にお化けがでると評判だった。実際に、いろんないたずらをする。

走る音なんかさせる。誰もいない部屋で。

その人は昔から金縛りにあったりしやすい人で、気にしていた。

しかし、「気にすると喜ぶから無視したほうがいい」とアドバイスすると、その音がやんだ。

怖がる人にはまだ現れているそうだ。

つまり、悪霊というのは、「気を引きたい」のだ。

そうやって、どんどん恐怖の穴の中に落とそうとしている。

喧嘩には、悪霊が入る。

気づいていないかもしれないが、火に油を注ぐように、脳裏に相手が激怒するような言葉を入れてくる。

だから、喧嘩が始まったら、祈ることだ。議論しても無駄。

時間と労力と、そして友人を失うことになる。

そうやって、分裂させようとしている。

誤解は解くべきだが、いくら説明しても相手がなっとくしないのなら、手を上げて祈るべきだ。

そして、神にゆだねること。

そうすれば、神があとはやってくれる。

最後まで徹底して相手を納得させよう、と思ったら悪魔の罠にはまる。

教会はこれで大打撃を受けてきた。

どうしても理解しあえないなら、距離を置いて、放置すること。

人間の限界とは、「法の定めの範囲内の義務を果たすこと」だ。

聖書的な義務を果たしたら、相手が納得するか、怒りを納めるかは、もう神の領域なのだ。

「私の義務は果たしましたので、あとはよろしくお願いします」ということ。

それ以上は無駄。いや、むしろ有害。

(2)
だから、我々クリスチャンは、誰にも何も期待してはならない。

愛情をほしがる人がいる。

両親の愛情を受けなかったとか、父親から愛されなかったという欠乏を覚えている人は、それを誰かに求める。

求めることは、相手を縛ることなので、嫌われて悪循環に陥る。

人間には求めないこと。

聖書の原則は、「与えなさい。そうすれば受けるだろう」だ。

自分に何か欠乏があるなら、むしろ与えること。


与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」(ルカ6・38)

他人を自分の腕のように考えて動かそうとすると、周りの人が病む。

むしろ、他人に奉仕することだ。押し付けの奉仕ではなく。

そうすること以外に自分の欠乏を補うことことは、不可能だ。

ある人は、子供時代に金銭で苦労したので、金銭への執着が強いかもしれない。

ある人は、愛情に飢えているので、愛を受けることを望むかもしれない。

しかし、それを求めてもけっして渇きは消えない。

そして、けっして目的地にたどり着けない放浪の旅に出るはめになる。

(3)
こういう「求める」人生を送る人は、貴重な時間を無駄につかわせようとするサタンの策略に乗っているのだ。

アダムは、世界をエデンの園にせよとの命令のために創造された。

だから、御国建設に集中することだ。

自分の内側を見て際限のない悔い改めをする人もサタンの罠にかかっている。

罪の悔い改めは一度でいいのだ。

それで神との関係は修復された。

あとは、内面を清めようなどと何度も悔い改めてもきりがない。

時間の無駄だ。

最近、こういうミニストリが多い。

心理学の影響だ。

病院に入れて、医者とのカウンセリングで自分の過去を振り返って治そうとなんて無駄なことだ。

ある程度は必要だ。どこに問題があったか調べることはある程度有益だ。

しかし、やりすぎるとろくなことはない。きりがない。

そこにサタンがつけこむ。

「そうだ、もっとも自分の内側を調べなさい。こういう悪いところ、汚れたところがあるじゃないか。」とささやく。

内省もいいかげんにして、自分の問題がわかったら、仕事をすることだ。

外部に働きかけ、他人を幸せにすることに心を用いることだ。

そうすれば、自分の問題など知らぬうちに解決する。

自分を忘れて、外の世界を変えることに労力を使うように、我々は作られている。

だから、仕事に忙しい人ほど健全なのだ。

この世界にはやるべき仕事が山ほどある。

御国を築き上げる仕事は無数にある。

自分に割り当てられた仕事は何か調べるべきだ。

自分の本当に興味があることはなにか。

それが適性であることが多い。

適性を見極めて、自分に向いた仕事に集中する。

そうすれば、仕事の依頼は必ずあるだろう。

あとはスキルを磨いて、よりよい仕事をすることだ。

向上心が沸いてくるだろう。

そうしたら、わき目もふらずに仕事に没頭せよ。

それが、我々の人生の目的だ。

サタンはこの目的から逸らすために、世俗心理学などで惑わそうとしているのだ。

我々を必要としている人は必ずいる。その人々のために一心不乱に働くことこそ、真の神の国建設なのだ。

 

 

2009年11月18日

 

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