クリスチャンは体においても復活した


今日、死んだクリスチャンは霊になって再臨を待つと考えている人が多いと思う。

しかし、考えていただきたい。

霊では、キリストの体に加わることはない。キリストは体を持っておられる。復活されたので。そして、クリスチャンも復活していると聖書は述べている。(*)

復活しているから、今我々は聖餐に加わることができる。

パンとぶどう酒は、我々の体の一体性を表している。

もし死んだクリスチャンに体がないとしたら、我々との間に体の一体性はない。だから、死んだクリスチャンはキリストにあってひとつではないということになる。しかし、聖書全体の主張によれば、主を信じる者たちはキリストにあって一体である。

どうしてこういう教理が生まれたかというと、以下の箇所を未来の出来事と誤解したからだ。


私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。(1テサロニケ4・14-18)

つまり、「未来にある再臨において、キリストは死んだクリスチャンの霊を連れてやってこられる。そのとき、彼らが先に復活し、次に生き残っている我々が復活する。」と考えているからだ。

しかし、この説には矛盾がある。時代背景を無視している。歴史的解釈をしていない。

これは誰に対する手紙だろうか?紀元1世紀に生きていたテサロニケ人である。

パウロは彼らに対して「このことばをもって互いに慰め合いなさい」と述べている。

つまり、パウロは、このいわゆる「携挙」と呼ばれる出来事が、紀元1世紀のテサロニケ人に起こると断言しているのだ。

もしそれが2000年後まで成就しなかったとしたら、彼の慰めは「空約束」になる。パウロが言った言葉をまにうけて慰めを受けていた人々は、ついにそれが成就しなかったので失望したまま亡くなったということになる。

前にも述べたが、聖書における預言と偽預言の判別法は、それが成就したかどうかを見ることである。

もしこの箇所が2000年後の現代に対するものであるというならば、この預言は成就しなかったということになり、パウロは偽預言をしたということになるのだ。

この出来事は、紀元70年に起きた。そして、よみがえりはここで起きた。魂だけの状態であったクリスチャンの死者(旧約時代のクリスチャン)は、ここで体を与えられた。

その後の時代は、復活の時代である。キリストが復活されたので、体は即与えられる。

我々は、クリスチャンになったと同時に永遠の体を与えられる。

「え〜っ、この体は永遠ではないでしょう!何をバカなことを!」と言うだろうか。

クリスチャンは、この肉体がいわゆる「死ぬ」ときに、体が「切り替わる」のである。死ぬのではない!

イエス・キリストは、「私を信じる者は死んでも生きる。生きていて私を信じる者は死なない」と断言されたではないか。

クリスチャンは死なないのだ。この我々の持っている肉体はすでに不死の復活体だ。

いわゆる「死」が来たときに、我々は、血肉ではない体に切り替わって、ある場所に移される。

そこは今キリストが物理的におられる場所、天である。(**)


(*)
これも、霊的復活であると考えている人が多いが、霊だけではなく体の復活でもある。復活した体でなければどうして聖餐にあずかることができるのか。霊肉ともに我々は聖められた。だから、聖餐においてキリストの体にあずかることができる。

(**)
もしこのような物理的な場所がなかったとし、キリストが復活体として物理的に存在していないとすれば、キリストは人間の頭にはなれない。

キリストは神であり同時に人間であるという教理はキリスト教の基本中の基本である。

キリストは、人間の頭であり、新人類のトップとして、絶対に体を持っていなければならない。

 

 

2008年1月26日

 

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