牧師に唾をかけて出て行くような人間は祝福されない2
権威のある者に対する無礼の好例は、シムイである。
「ダビデ王がバフリムまで来ると、ちょうど、サウルの家の一族のひとりが、そこから出て来た。その名はシムイといってゲラの子で、盛んにのろいのことばを吐きながら出て来た。
そしてダビデとダビデ王のすべての家来たちに向かって石を投げつけた。民と勇士たちはみな、王の右左にいた。
シムイはのろってこう言った。『出て行け、出て行け。血まみれの男、よこしまな者。 主がサウルの家のすべての血をおまえに報いたのだ。サウルに代わって王となったおまえに。主はおまえの息子アブシャロムの手に王位を渡した。今、おまえはわざわいに会うのだ。おまえは血まみれの男だから。』」(2サムエル16・5−9)
彼は、前王サウル一族のものであり反ダビデ派であった。
アブシャロムの反乱によって権威を失なった機に乗じてダビデに向かって悪態をついた。
ダビデは、これを神から来る一つの試練として甘受した。
「王は言った。『ツェルヤの子らよ。これは私のことで、あなたがたには、かかわりのないことだ。彼がのろうのは、主が彼に、「ダビデをのろえ。」と言われたからだ。だれが彼に、「おまえはどうしてこういうことをするのだ。」と言えようか。』
ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。『見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。
たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。』」(2サムエル16・10−11)
ダビデはシムイに直接報いることをしなかった。復讐を神に委ねた。
ダビデの態度は、主にすべてを委ねるというクリスチャンのそれである。
「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」(ローマ12・19)
後でアブシャロムの反乱が収まると、シムイは手のひらを返したように、ダビデにひれ伏して命乞いをした。
「バフリムの出のベニヤミン人、ゲラの子シムイは、ダビデ王を迎えようと、急いでユダの人々といっしょに下って来た。
そして彼は、王の家族を渡らせるために渡しを渡って行き、王が喜ぶことをした。ゲラの子シムイも、ヨルダン川を渡って行って、王の前に倒れ伏して、ツェルヤの子アビシャイは口をはさんで言った。『シムイは、主に油そそがれた方をのろったので、そのために死に値するのではありませんか。』」(2サムエル19・23)
ダビデは赦した。
「そして王はシムイに、『あなたを殺さない。』と言って彼に誓った。」
ダビデは、自分の私的な感情から裁きを下すことをしなかった。
しかし、だからと言って、権威ある者に対する呪いが、神の裁きを免れたわけではなかった。
ダビデの子ソロモン王の時に、シムイは反逆分子と見なされ、エルサレムから外に出てはならないとの命令を王から受けた。
「王は人をやって、シムイを呼び寄せ、彼に言った。『自分のためにエルサレムに家を建てて、そこに住むがよい。だが、そこからどこへも出てはならない。…』
シムイは王に言った。『よろしゅうございます。しもべは、王さまのおっしゃるとおりにいたします。』このようにして、シムイは長い間エルサレムに住んだ。」(1列王記2・36−38)
しかし、この約束を破ってある日彼はエルサレムから出た。
「それから、三年たったころ、シムイのふたりの奴隷が、ガテの王マアカの子アキシュのところへ逃げた。シムイに、『あなたの奴隷たちが今、ガテにいる。』という知らせがあったので、シムイはすぐ、ろばに鞍をつけ、奴隷たちを捜しにガテのアキシュのところへ行った。シムイは行って、奴隷たちをガテから連れ戻して帰って来た。」(1列王記2・39−40)
それを聞いたソロモンは、約束を破ったシムイを処刑した。
その際に、こう述べた。
「あなたは自分の心に、あなたが私の父ダビデに対してなしたすべての悪を知っているはずだ。主はあなたの悪をあなたの頭に返される…」(1列王記2・44−45)
つまり、このようになったのは、神の裁きだというのである。
シムイは、ダビデを呪い、悪態をついたために、ダビデから直接裁かれることはなかったが、結局、次の王によって裁かれた。
神に立てられた権威者に悪態をつくような人間は、神から直接裁かれる。
神に立てられた権威者は(神の命令にしたがっている限り)、神の御国を建設している神の権力代行者であり、彼に逆らう者は、神に逆らうのに等しい。
幼いクリスチャンの特徴は、「怖い者知らず」である。
彼(または、彼女)は、御言葉を説いている牧師や教師の背後に神の権威があることを知らない。
だから、牧師の顔に唾をかけて教会を飛び出すというような恐ろしいことが平気でできるのである。
たとえ牧師が直接彼(または、彼女)を裁かなくても、神は必ずそのような傲慢な人間を裁かれる。
2005年11月19日
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