神の言葉を検証できるのは神の言葉だけである


天地創造の「日」を10億年の長い期間と解釈する人々の間違いは、聖書を基準としてとらえていないところにある。

基準とは、独立しているのである。

例えば、ここに1mの原器があるとする。この原器は、他の基準と比較して1mになっているのではなく、それそのものが独立して1mなのである。

基準とは、何にも依存していない。

もし聖書が神の言葉であるならば、神は何にも依存しない超越者であられるわけだから、その御言葉も超越である。

何にも依存していない基準である。神と御言葉は基準以外の何物でもない。

となれば、他のものによって、神を証明しようとしたり、神の言葉を検証しようとしたり、神の言葉を何か人間の成果に左右されるようにすることは矛盾である。

そのようにした瞬間に、その人は、「神や御言葉は基準ではありません」と告白しているようなものである。

本当のクリスチャンの態度とは、御言葉を基準以外のものとしてとらえないということだ。

御言葉を検証する場合、我々に残されている道具は、御言葉しかない。

御言葉で御言葉を検証する以外にない。

神や聖書は究極の基準である以上、それを評価するものはそれ自身以外ない。

これがヴァン・ティル主義である。

神や御言葉は基準・前提以外の何物でもない、ということ。

これこそヴァン・ティルが一生かけて主張したことだ。

そして、それは当然、聖書的である。

だから、クリスチャン、しかも、改革主義者、カルヴァン主義者でありながら、なお、他の基準を持ち出して聖書を解釈しようとすることは、自己矛盾したことをしていることになるのだ。

我々は、聖書を科学的業績などによって裏付ける必要や義務はまったくない。

聖書以外の基準を出してくる必要性を説くのは、サタンである。

「神は本当にそのように言われたのですか。神がたとえ死ぬといったとしても、信じてはなりません。その実を食べてもあなたは死にませんよ。」とエバにささやいた。

神の言葉を基準や前提以下に貶めること。

これこそ、サタンの常套手段だ。

御言葉を見て分からない箇所があるならば、他の御言葉を見ること。

聖書の世界を自己完結した世界と見ること。

これだけが我々に許された道だ。

 

 

2008年7月8日

 

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