なぜ陰惨な事件が起こるのか?
足立の事件に関しては、何度かHPで取り上げました。私も同じように、あの女性の無念さ、恐怖などについて、言葉では表現できないものを感じています。
まさに、あれは人間の仕業ではなく、悪霊のそれであると感じます。
そして、なぜ神はあのような事件を許されたのか、悩みました。
しかし、予定論を除外しても、あのような事件に介入せずになぜ神はだまって見逃されたのか、不思議でした。
同時期に、似たような事件として、名古屋アベック殺害事件があります。
これも陰惨な事件で、加害者の刑が事件の大きさと比べてゆるいことに憤りを感じます。
2つの事件は、日本がバブルの最中で浮かれており、傲慢になっていた時期でした。
そして、昭和から平成に移り変わる時期で、霊的な変化、谷間の時期であったと感じます。
あのころは日本の覚醒にむけて大きな変化があったと思いますが、同時に悪魔も非常に強く働いたと感じます。
さて、世界には同じように陰惨な事件が起こっています。
アメリカではおびただしい数の子供たちが誘拐され殺害されています。
日本では一人いなくなると大騒ぎになるのですが、あまりにも頻繁にあるためそれほど驚かなくなっているのでしょうか。
彼らの一部は、サタン崇拝のいけにえとしてささげられていると聞きます。
実際アメリカの数%がサタン崇拝者であり、このような儀式を行っているとのFBIの元捜査官の話がユーチューブに載っています。
神はどうして罪のない子供がこのような悲惨な事件に巻き込まれるのを許されるのでしょうか。
人間は、神の王国とサタンの王国との戦いの只中に生まれているのです。
私たちは、平和な世界に生まれてきたのではなく、宇宙的な規模の大戦争の中に生まれてきたと聖書は述べています。
2つの王国は陣取り合戦をしており、その過程で犠牲者がでる。
我々、被造物としては正直迷惑な話です。
戦争の最中に生まれてきて、ほとんどの人はいけにえにされる子供のように何も分からないままに悲惨のどん底に投げ落とされる。人生は苦難に満ちています。その苦難の中で徐々にわかってくるものもありますが、ほとんど理由が分からない。
「人間は幸福を第一に追求する権利がある」とするヒューマニズムの幸福論からすると、この世界は、理不尽です。
ヒューマニズムの理屈と現実とはまったく異なります。
現実は、「人間は自分の幸福を追求するために生まれてきたのではなく、神がご自身の栄光という目的を実現するために生まれてきた」ということです。
人間の側から見ると、まったくひどい話です。しかし、これが世界の成り立ちなのです。世界を創造され、人間を創造された方がこのような目的で世界を動かしておられるわけですから、もうどうしようもないのです。
「いや、人間が人間の幸せを追求すべきだ。神の栄光など関係ない」と言う人がいるかもしれませんが、それは単なる気休めであり、現実は人間の幸せのためには世界は動いていない。
霊的な世界に深く入れば入るほど、この世界が人間中心にできていないという現実を知らしめられる。
今、自分の幸せのために生きていると思っている人々の生活を注意深く観察すると、誰かほかの存在に動かされていることに気づきます。
クリスチャンになって聖書と聖霊の導きの中にいない人々は例外なくサタンの奴隷であり、サタンの支配のもとにいます。彼らはサタンと無関係に生きていると考えていますが、しかし実際はサタンに完全に徹底的に洗脳・マインドコントロールされています。
どんなに勉強し、賢くなっても、絶対にそのマインドコントロールからは逃れられません。そして、人生をサタンの栄光のために利用され、地獄に叩き落とされる。死後気づいたら暗闇と炎の中ということになる。
オウムの信者を見ればサタンの世界が理解できます。良心的な人々ですら殺人に導かれる。教祖本人がサタンの霊によってがんじがらめに縛られている。
ではクリスチャンになったら自由かというと、たしかにサタンからは自由ですが、究極的な意味においてそうではありません。
神のコントロールの中に置かれます。神のコントロールとは、絶対的な幸福であり、その中にいることは、被造物の自分にとって最善です。「いやあ、これが幸福なんですか?」とたずねるかもしれません。しかし、基準は人間ではなく、神なのですから、もっとも幸せなのです。
私たちは、幸せの条件を考えているかもしれません。しかし、神の幸せの条件は、自分にとっては、そうではないかもしれない。しかし、神が基準なのですから、神の幸せの条件にいるなら私たちは幸せなのです。
考えてみてください。人生の中で出会いはまったく不思議な出来事です。それまでまったくあかの他人だった人に出会う。そして、友人になったり、結婚したりする。
これは偶然なのか。そうではありません。たしかに街ですれ違う人とはそれだけの関係でしかない。しかし、自分と深くかかわるような人は、神の深い御心に基づいている。神の御心がなければ絶対に今のこの状態はない。これは自分の体験を振り返ると誰もが感じられることです。
自分の身に起こることは、「まさにピンポイントで成就した神の計画」であり、それ以外のことはありえない。
世界のあらゆる出来事は、神の計画によって起こっており、神はご自身の御心によって、悪魔の活動を許される。
それがいかに陰惨なことであっても、そのように神がサタンの鎖を緩められたのだから仕方がない。
しかし、だからといって、我々があの事件のようなことを許していいかというとそうではない。神は我々にあのような事件の再発を防ぐように求めておられ、また、あの犯人たちに厳罰を加えること、殺人者には死刑によって報いることを期待しておられる。
何年か前に高速道路で、酒酔い運転のトラックに追突されて炎上、子供2人が焼死した事件は、酒酔い運転の厳罰化のきっかけになりました。
このようにして犠牲を社会の改革のために生かさなければならない。
神が行われることには何らかの意味がある。
その意味を我々が悟って、社会の向上のためにそれを生かすべきである、というのが聖書の主張です。
2009年8月1日
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