律法はいのちを与えないか?


このテーマ「律法と約束(福音)」については、普通の改革主義の教会の意見と我々の意見はまったく一致しているので、その点我々を新しい運動のように理解されないようお願いします。

律法が契約の民のいのちの生活に寄与するという考えは、我々が独自に主張しているわけではなく、カルヴァンをはじめ、改革主義が500年間言いつづけているところです。

しかも、再建主義の新しい部分として「生活のあらゆる領域に律法を適用する」という考え方もけっして新しい教えではなく、カルヴァンが申命記講解において主張し、アメリカピューリタンが主張しているところでもあります。

再建主義には、歴史上はじめて言い出したというものはありません。

はじめてやったと言えば、歴史上すでにあった正統派プロテスタントの教え(前提主義、統治主義、神法主義、契約主義、ポスト・ミレ)をまとめて提示したということでしょう。

だから、これだけ我々に対して批判があることに正直言って驚いています。

>富井さんのもっとも主張したい点は、ヒューマニズムに落ちている現状を改め
>よ、ということだと理解しました。それには律法の意義を司法を含めてあらゆる
>領域に適用せよと言うわけです。ここが再建主義の特徴であり、ここが私たちと
>の違いなんです。それを論証しているのが山谷氏の主張なのです。

これは、再建主義の特徴ではなく、改革主義の特徴です。
カルヴァンは、セオノミーを信じていました。つまり、神の法を行政、司法など様々な領域に適用すべきだと考えていました。
ウェストミンスター教授だったコーネリアス・ヴァン・ティルは、この地上のあらゆる領域をキリスト礼拝の場にせよと言いました。

山谷さんは、何も論証などしていません。
彼が意見を述べたことはなかった、ただ質問しただけです。

>つまり、私たちはいのちを生きれば、自動的に神の御心が地上に成就するわ
>けです、が、実際はクリスチャンが砂糖まぶしをしているわけなんです。つまり
>は「私の十字架」がないわけです。つまりは天国行きの切符をもらったところま
>でで、いのちを知らないので、「清く・正しく・美しく」のお体裁の世界になってい
>るわけですね。

「いのちを生きれば、自動的に神の御心が地上に成就する」ならば、聖書はいりません。

人間はたとえ再生され、いのちを得ても、「書かれた指針」がなければ正しく歩むことはできません。

聖霊と聖書という両者が必要であり、この点については、我々の主張は改革主義のオーソドックスな見解と一致しています。

 

 

2005年10月12日

 

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