生徒の非行の問題 by Rousas John Rushdoony 2
親が言うもっとも一般的な言い訳は、「それは先生の側の問題です。先生が私の子供を理解してくれないからなのです。」というものである。このような苦情には厳正に対処する必要がある。第一に、完全な教師など存在しない。それゆえ、子供を完璧に扱うことのできる教師など存在しない。これは的外れな苦情である。生徒には、教師がどのような人であれ、教室の中において教師に服従する責任がある。また、両親には、子供に対して教師に服従するよう命じる責任がある。第二に、子供を「理解する」責任は教師にはない。教師の責任は子供を「教える」ことである。私の教師が私を理解してくれたことはほとんどなかった。そして、そのことは時々私にとって苦痛であった。しかし、彼らはみな私を「教えて」くれた。それによって私は利益を得た。
さらに、子供を「守る」ことと、子供を「助ける」ことには違いがあるということを両親にしっかりと(しかし、穏やかに)伝える必要がある。しばしば、子供を守る最良の手段は懲らしめである。子供を助ける最良の手段は「世の中をおまえの基準に従わせようとするのではなく、おまえが神の基準に従わねばならない」ということを子供に示すことである。子供の罪を聖書的に処理しないと、学校も子供も父兄もみなが苦しむことになる。優秀な両親から生まれ、非常に高いIQを持っているのに、現在収入が乏しいため、奥さんと共働きでなければやっていけないある若者がいる。彼は成績不良により大学を退学した。キリスト教界において卓越した地位あった彼の両親は、自分の息子を頑固に守り、彼の真実の姿を直視しようとしなかった。クリスチャンスクールの教師も同じようにした。息子の問題を正しく扱った人は、校長や牧師の支持を得られなかった。その結果、彼の生活は荒れ、両親は苦しみ、教師らは長年にわたり悲惨な状況を強いられた。子供の罪が悪化した責任は、両親と教師、校長、牧師にあった。「みなが」主に対して「罪を犯した」。一人の悪童によって学習を妨害された子供たちもその被害者であった。「罪を罪として扱わないことは、罪である」。罪を許容し、それを「活動過多」などと呼ぶことは罪である。子供の罪が、学校職員の罪の機会となってはならないのである。
主が我々を祝福されるのは、我々が罪を犯したからではなく、我々が忠実であったからである。人間を堕落と悲惨に陥れたのは、アダムの罪である。罪は依然として我々の基本的な問題である。クリスチャンスクールは、罪の問題を扱う際に、自らが非行化してはならない。
生徒の罪を扱うことに失敗するもっとも主な理由は、第一に、経済的な損失への恐れである。経済的な損失は現実的問題である。しかし、本質は優先順位にある。どちらのほうが重要であろうか。経済的な見返りか、それとも、主の祝福と学校の発展か? さらに、結局のところ、罪を許容する学校は経済的にも損失をこうむるのである。
第二に、両親に対する恐れは、通常、彼らが社会的に高い地位にある場合に起こる。もし我々がそのような恐れに「支配」されているならば、我々は学校において彼らに支配されるようになる。学校において我々は、問題児と、彼に振り回されている両親に対して権威を失うことになるだろう。
第三の理由は、道徳的な臆病である。困難な問題の処理には、通常苦痛が伴うものである。しかし、道徳的な臆病は、さらに大きな苦痛を引き起こす。
罪は人間の基本的な問題である。我々は、自分自身の罪や生活のあらゆる領域における罪の問題を避けて通ることはできない。クリスチャンスクールは、それに対処する準備を常に整えておかねばならない。
2006年9月30日
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