不幸な死に方は選ばれていないことの証拠ではない
<fms様>
「運命」こそ最高の審判者
「運が悪い」ということは、大変恥だと感じます。
何教の信者であれ、大事故で死んだり、殺されたり、病気で早死にしたりするのは、やはり印象のよいものではありません。
こういったことは、全て避けるべきものだと思います。
また、こういった経験は、かなりの割合で本人の「意識」が影響していると感じます。「事故に遭うかもしれない」と恐れていると、本当に恐れていたことが現実になる場合が多々あります。
私は、本当に神に選ばれた人であれば、その事実が本人の運命によって証明されなければならないと考えています。
すなわち、一切の悲劇から守られ、多くの人が経験するであろう災難のほとんど全てを免除され、殉教もせず、長寿をまっとうする、ということこそ、神の計画された本来の人生なのではないでしょうか。
申命記の十章(?)あたりでしたか、よく覚えていませんが、神を愛する者に与えられる祝福と、そうでない者に対する呪いが記されています。しかし、この祝福に関する約束こそ、神が人に望まれる本当の運命なのではないでしょうか。そこにはもう、ただ祝福のみ、繁栄のみ、といった感じで書かれていますよね。そこに、受苦礼賛の思想もなければ、殉教を美化するようなことも、書かれていない・・・。
(殉教は、一種の宗教的マゾヒズムではないかと思っています。)
しかし、一部の人を除いて、多くのユダヤ教徒やキリスト教徒がこのような祝福にあずかっていないとすれば、やはり何かが間違っているのだと考えざるをえません。
私は、人間の運命こそ、もっとも公平な審判者であると思います。
神と直接対話はできないけれども、運命を通して、神はご自分の意志を間接的に伝えておられるように思います。
イラクで首を切られた韓国人のクリスチャン青年は、やはり心の底に神への不信感を抱いており、また運命に関して何か誤った考えを持っていたとしか思えません。そうでなければ、ああいうふうになるわけがない。
やはり、人間は、心の底で、神と運命に関して、本当に信じていたことのみを現実の世界で経験しているのだと思います。
そして、神が用意された「試練から逃れる道」とは、あの世ではなく、内的なことも含めて、徹頭徹尾地上的なものでなければならないと思うのであります。
以上で、一連の、私の質問を終わりにさせていただきます。
あとは、ROMで行きたいと思います。
再建主義は、他のキリスト教とちがって、はっきりものを言うので、読み応えがします。
富井先生、ありがとうございました。
先生の働きが祝福されますように。
fms
<tomi>
聖書は、はっきりとクリスチャンの受難について教えています。
ステパノは、神に忠実でしたが、迫害され殺されました。パウロもペテロも12弟子のうち11人が殉教しました。ヨハネはかろうじて一人だけ生き残りましたが、ひどい迫害を受けました。
もし殉教とか悲劇が起きたことが呪いであり、それが神に選ばれていないことの証明ならば、弟子たちは呪われ、選ばれていなかったということになるのです。
このような単純な因果律で世界を見ることはできません。
「私の弟子となりたいならば、十字架を背負って私についてきなさい。」とイエスが言われたように、クリスチャンはその人生において常に死を覚悟しなければならないとすら言われている。
「自分のいのちを得ようとするものは、それを失い、それを失うものはそれを得る」とも言われている。
ある人が非業の死を遂げたことを、即、彼は呪われていたから、とか、罪を犯したから、とか結論するのはあまりにも極端であり、このような単純なものの見方はバランスを欠いています。
聖書において、選ばれているか選ばれていないかを判別する唯一の手段は、「信仰を告白しているか。イエスを人となってこられた神と信じるか、そして、主と認めるか」ということだけです。
もし、これを告白できるならば、選ばれていますが、告白できないならば、選ばれていない。
(もちろん、口だけの告白もあるわけですから、厳密に言えば、死ぬ時まで誰が予定されていたかは分かりませんが。)
聖書から証明できないことを頑固に選び取るということは破滅につながりますので非常に危険であるということだけは申し述べておきます。
2004年6月27日
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