『バカの壁』を作って『バカの壁』を批判しないようにしよう2
今の日本人は、残念なことに、キリスト教について基本的なことすらも教えられていない。
学校教育が反キリスト的で偏向しているので、偏見に支配されており、キリスト教を批判するにしても、キリスト教の実像に対してではなく、自分が想像によって作り上げた虚像に対して批判していることが多い。
私のネット上での議論の経験からだが、とくにこの傾向は、理系の人々に多い。理系の人々は、大学において社会科学系の勉強をしていないためか、日本の高校の偏向教科書の知識に基づいてキリスト教を批判しているように見える。
キリスト教が西洋文明(科学、政治、哲学、文学…)に与えた圧倒的な影響について知らないものだから、一神教というカテゴリーの中にイスラム教といっしょにぶちこんで同列に論じるなんて粗暴なことができるのであろう。
私が知る限り、ヨーロッパにおける科学の発展は、認識論に関する厳密な反省に基づいて実現した。
社会科学の誕生においても、社会科学の知識の範囲を定めるために、認識論に関する議論が徹底してなされた。
「我々はどこまで知ることができるのか?」という疑問に答えを出すためにヨーロッパの科学者は賢明に努力した。しかし、『プロテスタントのバカの壁』を批判する人々をはじめとする日本の科学者一般はどうやらそうではないとの印象を受ける。
事実、自然科学に適用される帰納法的認識論を、宗教教義の領域にまで適用する過ちを犯しているのをよく見かけるからだ。
たしかに自然科学において、現在流行の認識論とはできるだけドグマを排する帰納法的認識論である。
「科学的知識は反証の余地を常に残しておかねばならない。真理とは、反証が成立するまでの暫定的真理に過ぎない。」
この認識論において、宗教教義は、科学的知識の対象外ということになる。なぜならば、宗教教義とは、帰納法的認識論に基づく「反証可能な知識」ではないからだ。
宗教教義とは、ドグマである。「聖書は神の言葉だ。だから絶対だ。」とプロテスタント・キリスト教は宣言する。
プロテスタントの『バカの壁』を批判する人々は、このような宣言を嫌う。それは、独善的だ、と。そのような宣言をして、他者の考えを否定するから戦争が起こるのだ、と。
しかし、それは、彼らが「知識とは実験観察により集められたデータに基づく帰納法的認識論によって得られるべきである」という現在流行している自然科学の認識論だけを正しい認識論とし、絶対化しているからである。
それだけが正しい認識論であることを証明することなど誰もできない。
そもそも、現在流行の帰納法的認識論は、宗教教義の領域には踏み込めないという限界を前提として成立しているのだ。それは、「この認識論が扱うことができる領域は、現象の世界についてだけである」という限界を受け入れているからだ。
それにもかかわらず、宗教の演繹的認識論を批判するとは何事だろう。自分自身が設定した限界を忘れ、フライングをする傾向は、現代の科学者によく見られる現象である。
プロテスタントやイスラム教が、「神は〇〇である。」というドグマを述べたとする。
科学者は、このドグマを肯定することも否定することもできない。実験観察し、データを集め、法則を立て、その法則を検証するために実験を行うという方法によって、「神は〇〇である」というドグマを評価することはできない。
なぜならば、神の存在、物事の意味、物自体の世界(ヌーメナルの世界)は、(経験主義による合理主義認識論への批判後)実験観察の手法では認識不可能だと科学者は認めているからだ。
認めていながら、なぜ敢えて「そんなドグマを言って、自分を絶対化するから戦争が起こるのだ」というのか???
「知ることはできない」と認めている領域について、なぜ敢えて「それは間違っている」と断定できるのか?
さらに、彼らは、「キリスト教は一神教として統一性を重んじるが、同時に、神に複数の位格を持たせ、多様性も尊重する立場である」ということを知らないか、無視している。
イスラム教は一位一神教だが、キリスト教は三位一神教なのである。
キリスト教が作り上げた近代音楽のオーケストラはこのキリスト教の教義をよく表現している。多様な楽器が一人の指揮者のもとで一つの音を作り上げる。
キリスト教の理想とは、他者を無理やり自分の意見に合わせるよう強制することではない。戦争や暴力という手段によって、教えを広めるなど邪道である。
「…それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」(1コリント1・21)
キリスト教を広めるための手段は、もっぱら「宣教のことばの愚かさを通して」である。
2005年5月8日
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