合衆国憲法は歴史上最も成功した詐欺である
The Most Successful Fraud in American History(アメリカ史において最も成功した詐欺)という題でゲイリー・ノースが次のように述べている。
http://www.lewrockwell.com/north/north445.html
最も成功した詐欺を働いたのは、ジェームズ・マジソンとその仲間たちだ。
1. 詐欺を計画・実行した人々はその後、犠牲者たちから、「英雄」、「天才」と呼ばれ、「アメリカ人の福利にとって欠くことのできない人物」として賞賛された。
マジソンは、一般に「憲法の父」と呼ばれている。これは正しい。1787年に憲法会議が開催された。この会議は(1)ドアの内側から鍵を閉め、一般人やマスコミをシャットアウトした。(2)出席者は、あらかじめいくつかの議会から正式に出されていた禁止命令を破り、連盟規約(アメリカ合衆国を結成した初期13州の最初の憲法)の条項を「改定」するのではなく、「置き換え」た。(3)連盟規約に反して、この非合法の文書を批准した。マジソンは現場にいて、この会議の運営に携わった。当時誰もがそのことを知っていた。
2. 共謀者たちは、秘密厳守の誓いによって拘束されていた。彼らは死ぬまでその誓いを守った。また、証拠の書類が残っていないため、歴史家はそれについて調査できない。
会議の出席者は、閉じられた扉の向こうで行われていたことをけっして明かさなかった。会議の反対者であったメリーランド州のルーサー・マーチン(独立宣言の署名者)は、開催期間中ずっと会議の計画に反対していた。彼がメモした討論の内容は、会議の最後の生存者マジソンの死後2年たった1838年まで出版されなかった。
マーチンのメモは、同じく会議の内容に反対していた出席者ロバート・イェーツのメモといっしょに出版された。題名は『1787年憲法会議における秘密討論』であった。
今日、この書を読む大学院生はほとんどいない。まして一般大衆が読むはずもない。このような重大な意味を持つ文書がインターネット上で自由に閲覧できるようになれば、歴史における記憶の空白は容易に埋められるだろう。
マジソンは自分のメモをジョージ・ワシントンに渡し、ワシントンは自宅に持ち帰った。マジソンは、それを渡すようにワシントンを説得できる人間はいないと確信していた。彼のメモが出版されたのは1845年のことである。
イェーツやマーチンのような反対者に、メモの出版を断念させたのは、いったい何だったのだろうか。それは、明らかに、秘密厳守の誓いであった。これについて歴史家はほとんど沈黙している。当時、宣誓は非常に重大なことと考えられていたのである。
3. この詐欺行為の性質は批評家の間では明らかであり、彼らは詐欺が行われた当時この事実を公開したのだが、被害者である大衆の大半はそれを信じなかった。
反連邦主義者は、この秘密の会議と、そこで作成された憲法に対して多くの批判文を書いた。しかし、会議を是認したすべての州において、連邦主義者が勝利した。マジソンは、最も優れた政治的組織家であった。さらに、彼はおそらく、歴史上最も成功した政治理論家でもあった。
彼は憲法会議のメモを取り、死ぬ直前にそれを改訂した。歴史家による記録書は、このメモに基づいている。ソロンもリュクルゴスも理論書を残さなかったが、マジソンは残した。この点においてマジソンに近いのは、レーニンぐらいである。しかし、レーニンが陰謀的革命によって作り出したものは、4分の3世紀しか続かなかった。
4. 時とともに批評家たちの否定的な評価は人々の脳裏から消え去り、この詐欺の被害者の子孫は「これは詐欺ではなく、実は偉大な計画であり、我々が守るに値するものである」と考えるようになった。
反連邦主義者の論文集の完成版をはじめて編纂したのは、ハーバート・ストアリングであり、シカゴ大学出版部が1981年に諸大学の図書館への所蔵を目的に出版した。現在これらの文書はインターネット上にあるが、1981年にはインターネットは存在していなかった。
20世紀の歴史家の典型的な態度は、1960年代に私が大学院生だった当時、最も有名な記事の一つのタイトル――セシリア・ケニヨン著『不信仰な人々:代議員政府の性質に関する反連邦主義者の主張』(1955年)――に現れている。
この著者は、ボブス・メリルの編集者によって、反連邦主義者の論文集の編纂を任された。この論文集は、私の大学院時代、アメリカ植民地史に関するPh.D試験を受ける学生が読まなければならない文献であった。
5. この詐欺の本当の意味がわかった人は誰からも相手にされない。なぜならば、被害者の子孫たちは、彼らを変人としか考えていないから。
私は、憲法に関する著書『フィラデルフィアにおける陰謀(Conspiracy in Philadelphia)』(2004年)を出版した。この第1版は、1989年の著書『政治的多神教(Political Polytheism)』の第3部として書き上げたものである。これは、私が書いたものの中でも最も不人気な本かもしれない。私がターゲットにしている読者の間でも人気を得られないかもしれない。私は一人の熱心な婦人のことを思い出す。彼女は、独立クリスチャン平日学校運動の闘士であったが、息子さんに向かって「彼はなぜ『これ』を書かねばならなかったのだろうね?」と言った。
つづく
2006年3月29日
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