神は耐えられない試練を与えない


<fms様>

「クリスチャンは不安を捨てるべきだ」について

富井先生のこのような主張も、今では再建主義ならではのものとなっているのでしょうか?
といいますのも、(詳しくはよく覚えていないのですが)「信徒の友」とったクリスチャン向けの雑誌などを読むと、そこにはいいことも書いてありますが、所々に不条理に弄ばれ、数々の悲劇にさいなまれる信徒の姿が描かれており、それが人のやる気を失わせるような話になっているのであります。

熱心なクリスチャンだった私の先輩は、彼の知り合いのクリスチャンの何人かが、ノンクリスチャンでさえ滅多に出会わないような悲劇に見舞われ、長老を含めてそのうちの何人かは死んだということもあって、遂に信仰を捨て、日本のある新興宗教の熱心な信者になってしまいました。

彼はクリスチャン・ホームを築いていたのですが、今では一家揃って、その新興宗教の信者です。そして噂では、彼が、もと居た教会の信徒を、新興宗教に勧誘するので、牧師が困っているとのことでした。

今回、イラクで首を切られた韓国人の人質も、釜山神学大学で学んだ人であり、牧師またはアラブ世界への宣教師を目指して、アラビア語の勉強に励んでいたということでした。

処刑を前にした彼の、肩を震わせて泣きじゃくる姿は、まことに哀れであり、韓国のクリスチャンたちの中には、神の加護に対して不安を覚えた人もいると思います。

我々世俗の人間の間では、「彼は前世でよほどのことがあったのだろう」とか「潜在意識中の誤った思考が災いを招いたのだ」とか、悲劇の責任をその人の人格や思考や、時には「前世」などに帰すことができるのですが、キリスト教の場合はあのような愚かで悲劇的な死さえも、「神が彼にあたえられた最後」ということになり、なんとも釈然としません。

しかし、「彼は、皮相的には良い人であったが、心の中では神に反逆しており、それゆえ、彼はあのような悲劇的な最期を遂げたのである」と考えるならば、原因と結果がある程度まではハッキリするし、そう信じることが許されるなら、納得もできます。

また彼の悲劇を、「ディスペンセーショナリズムを肯定するものに加えられた神の刑罰」とすることも、多くの人は納得できないとしても、それなりにスジは通ります。

この点、どうお考えでしょうか?

fms

<tomi>

遠藤周作が、『沈黙』という本の中でキリシタンを襲った過酷な拷問と死に自分は耐えられない、だから、転んだ神父に同情すると述べていたと記憶しています。

私は、この本を読んで、信仰の世界を知らないからだと思いました。

私は、神は自分が耐えられない試練は与えられないだろうと思っています。

これまでもそうでしたし、これからもそうでしょう。

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(1コリント10・13)

2,3年前に経済的にどん底を経験しましたが、恐れていたようにはなりませんでした。

自分に何かが起こったならば、それは耐えられるから起こったのでしょう。

クリスチャンなのに、普通の人でも起きないようなことが起きることはあるでしょう。

そこで信仰を失ったならば、それはそもそも信仰がなかったのだと思います。つまり、選ばれていなかった。

人間的に自分の気持ちで信じていただけでしょう。神は耐えられない試練を与えないのですから、それで信仰から外れることは絶対にないでしょう。

こう言うと冷たいと言われるかもしれませんが、私は常々思うのは、神に選ばれていない人は、どんな理由をつけても神から離れます。

たびたび伝道に行く場所があります。そこでクリスチャンと何人かのノンクリスチャンが集まるのですが、その中に何年も教会に行って、クリスチャンの話も飽きるほど聞いているのにクリスチャンにならない人がいます。

彼は、何でもイチャモンをつけます。「キリスト教は、神の絶対性を振りかざす。だから嫌だ。」とか「キリスト教は超越神を信じるだろう。そんな遠くにいる神よりも神道のように身近な神のほうがよい。」とか変な理屈をいいます。そして、クリスチャンのちょっとした言動を見て、「だからクリスチャンになりたくないんだ。」とか言います。

こういう人は永遠にクリスチャンになれません。なぜならば、彼は神やクリスチャンに躓かされているというよりも、「躓きたい」のですから。

躓くためには何でも探してオーバーに表現する。こんな態度なら、この人のメガネに適う宗教なんて永遠に見つからないでしょう。

彼は神やクリスチャンに責任を転嫁しているだけなんです。本当の気持ちは別のところにあります。つまり、「罪を悔い改めたくない」ということです。神の前に頭を下げないでもすむためにキリスト教のあら捜しをしているだけです。

素直になれば、信仰に入るための道は大きく開いている。

目の前に大きな道が広がっているのに、そこに入らないのは、入ろうとしていないからです。入らないために、いろんな文句をつける。道がでこぼこだの、標識が立ってないだの、いろんな欠点を見つけては、入らないための口実にしている。

こういったヒネクレ者に対しては、たとえ死人の中の誰かが生き返って彼の前に現われても足りないでしょう。

ここで選びというものが分かります。選ばれている人は、周りのクリスチャンがどんなにあくどいことをやって自分を躓かせても、必ず救われます。

魔女裁判だとか、ガリレオ裁判などを取り上げてキリスト教にイチャモンを言って信仰に入らない人間がなぜ救われないかといえば、彼は選ばれていないからです。

もちろん、最期にキリストを受け入れれば救われますが、受け入れないならば、彼は選ばれていなかったからなのです。

これは他のことについても言えます。予備校で教えていて、勉強ができない生徒ほど先生に対する不平不満が多い。できる生徒は先生について文句を言わない。だいたい、「○○の授業はいい」「△△の講義じゃないとだめだ」などと評論しているのは、できない生徒です。この傾向はアンケートを取らせてもはっきりと出ます。アンケートにむちゃくちゃなことを書く生徒はできないクラスに多い。

結局、不平不満を言う人間の本当の動機は、責任を他の人間に負わせたいというところにある。こんな人間が向上するわけがないじゃないですか。

キリスト教が残した膨大な正の遺産に目をつむり、負の歴史だけをオーバーに表現して「だからキリスト教はだめだ。俺はクリスチャンになどならない」という人間の心は最初から神に敵対しているし、自分に対する反省がないので、つまらない不平不満だらけの一生を送るしかない。

試練があったのでキリスト教を捨てて新興宗教に走ったのは、試練が本当の原因ではありません。本当のクリスチャンならば、その試練を感謝してますます信仰の道に進むはずです。

なぜならば、「神は耐えられない試練を与えない」からです。

自殺する人も同じ。自殺せざるを得ない苦しみなどこの世には存在しません。激痛だって、人間はあまりの激痛が襲うと、脳の中で麻薬物質が分泌してそれ以上痛みを感じなくなると聞いたことがあります。

このように、神は逃れの方法を備えてくださる。

「あまりの試練のゆえにキリスト教を捨てた」というのはほとんどがサタンが人々を信仰から離すために作り出した創作でしょう。

宗教改革時代の迫害でも、キリシタン迫害の時でも、驚くべき奇蹟が起こったという証言が数々残っています。私達には計り知れない力を神は与えてくださるのでしょう。

イラクで殺害された韓国人の話ですが、私は彼がクリスチャンだったかどうかは知りません。日本で神学大学と名前がつくものは、リベラルで実質的にはキリスト教ではないので、疑問が残ります。また、家族の家が映されていましたが、霊前に線香か何かが立てられていて、仏教徒の印象を受けました。

もし彼が本当のクリスチャンであるならば、たとえ一時期動揺したとしても、神は必ず心を守られるはずです。彼の心の移り変わりは私にはわからないことなので、確かなコメントはできませんが、確かに言えることは、

「神は耐えられない試練は与えられなかっただろう。耐えられるように逃れの道を用意してくださっただろう」ということです。

 

 

2004年6月25日

 

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