国歌や国旗に対するクリスチャンの持つべき態度


クリスチャンはコスモポリタンではない。

クリスチャンは、自民族に対するとりなし手として立てられている。

なぜならば、クリスチャンの主な使命は「王、祭司、預言者」だからだ。

イエスは、この三重の使命を帯びて地上に立たれた。

だから、イエスに連なるクリスチャンも、この三重の使命を与えられている。

我々は、人類全般、知人友人に対してだけではなく、日本人に対しても「祭司」としての使命がある。

つまり、人々と神を結び付け、和解させる責任がある。

すでにイエスは、法的に全世界を和解させてくださった(コロサイ1・20)。

しかし、法的だけではなく、実際的にも世界は神と和解されなければならない。

そのために、クリスチャンはキリストの実行部隊として世界の和解のために働く。

さて、天皇問題について考えるときに、我々は、この「祭司としての使命」を忘れてはならない。

天皇を、左翼がやるように、むやみに嫌い、拒否し、廃位を求めるべきだろうか?

そんなことをやって証になるだろうか?

私は、日の丸、君が代、など、クリスチャンは、もっと日本人のとりなし手としての立場から好意的に考えるべきであると考える。

国歌や国旗そのものは、ある意味において、ニュートラルである。利用する人間によってどのようにでも変わる。

包丁が、利用する人間によって、料理の道具になる場合もあれば殺人の道具になる場合もあるように。

だから、自国の国歌や国旗を嫌う必要はなし、また、そうすべきでもない。

祭司、とりなし手、としてのクリスチャンは、これらの問題については、広く深い知識をもち、偏見にとらわれず、また、国粋主義のような、ナルチスティックな愛着も持たず、公平・無私の立場から考えるべきではないだろうか。

私がこのHPで取り上げているのはこういった方針においてであることをご理解いただきたい。

 

 

2006年8月8日

 

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