失敗やリスクを排除した社会は本当に幸せな社会なのか?


「年金制度が崩壊したら老後に年金を受け取れない人が出てくる」というが、昔は国に年金制度なんてなかった。

年金制度がなければどうするか?

夏の間キリギリスのように遊んでいたことの恐ろしさを身近に、もしくは、自分が体験するかもしれないということだ。

今の年金賛成論を見ると、これは悪いことだという価値観が前提となっているが、本当にこれは悪いことだろうか?

昔は戦争もあったし、新生児の死亡率も高かった。たくさんの不治の病に多くの人が50歳にも満たないで死んでいった。

生きることそのものがハードな仕事であるという自覚が人々にはあった。しかし、今は新生児が死ぬことがめずらしくなり、戦争もなく、結核や天然痘で死ぬ人もいない。

平均寿命が70〜80歳になり、死があたりまえではなくなっている。しかも、国が老後の面倒をある程度見てくれて、年金をくれるという。

こうなると、若者にとって「生きるには働かねばならない」というあたりまえのことがあたりまえではなくなってくる。

「働かなくても生きていけるのではないか?」という幻想を抱く人間が現れて、ひきこもりになる。そして、次第に「生きていても仕方がないんではないか。」などと異常なことを考えるようになるのである。

社会保障が厚くなり、過保護が進むにつれて、人間が人間として本来もっているはずの生きることへの執着心やサバイバルの能力まで失われていく。

これが年金制度の基本にある「失敗を排除しようとした社会」の行く末である。

聖書が教える社会とは、「自分のやったことの責任をきちんと取らせる社会」である。責任を取らせる代わりに、自由も与えられる。

つまり、大人の社会である。

マルクス主義が教える社会とは、「自分のやったことの責任を取らなくてもよい社会」であり、その代わりに、自由も喪失する社会である。そして、失敗において支払う価が小さいために、人々は次第に失敗を恐れなくなり、だらけてくるのである。

失敗やリスクを排除した社会が本当に幸せな社会なのかどうか、このような基本的な問題から考える必要があるのではないだろうか。

 

 

2006年1月15日

 

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