文脈を離れた御言葉は御言葉ではない
> 「二重預言説について」拝読しました。
> 今回も極めて初歩的な質問でお手を煩わせて恐縮ですが、宜しくお願い申し上げます。
> 私たちの、デボーションや黙想、祈りの中でふと「御言葉が与えられる」という現象があります。
> 「聖霊派」では特に「レーマが与えられた」と言って、聖書からそこだけを切り離して直接自分に適用しようとする傾向が強いようです。
> 「帰納的解釈法」では、そこで一歩とどまってコンテキストに立ち返って解釈し直してから、「与えられた御言葉」としています。
> 「与えられた御言葉」はどのように扱うのが、正しい聖書の読み方なのでしょうか?
私は、神様が文脈を離れてある御言葉を心に示すということをなさる方だと思います。なぜならば、御言葉を含めて、世界に存在する一切のものは神の自己啓示だからです。
全世界は神の所有なので、神は、ご自身を啓示されるときに、あらゆるものをその独自の用い方によって自由に用いる権利があります。
たとえば、雲は、水分を空中に蓄える働き、日光による大地の過熱を防ぐ働き、美観的働きなどいろいろな働きがあるでしょうが、神はある時にある個人に対して特別のメッセージをそれによって伝える場合があります。
ある形の雲が自分の知り合いの顔に似ていたとか、そこから暖かい霊気のようなものを感じたとか、個人によってそのような感じ方をする場合があり、事実、神がそのように導いておられる場合があります。
芸術家が自分のアトリエに所属するあらゆるものを利用して芸術作品を作ることができるのと同じように、神が自分を表現なさる際に限界はありません。ときにサタンの業を通じてご自身の栄光を表現されることすらあります。
聖書では様々な自然現象や霊的現象を通じて神が自己を啓示される個所があります。これは聖書の時代だけの話ではなく、現代にもあり得ます。なぜならば「神は変わることのないお方」だからです。
アウグスチヌスは、外で遊ぶ子供たちの「取って読め」という言葉に促されて聖書を読み回心しました。
私の友人は、スズメが教会のほうに飛び跳ねているのを見て、「教会に行きなさい」という神様の導きと感じて、教会に行き、クリスチャンになりました。
しかし、私たちが注意しなければならないのは、「それを普遍化できない」ということです。
個人的に与えられたことを普遍化して「あの形の雲は神がこういうことを示すために与えられた雲である」ということはできません。
スズメが教会に向かって飛び跳ねたら、それは自分に向けられた「教会にいけ」との神のお告げだ、と解釈することはできません。
個人的に、(文脈から離れた意味を持つ)ある御言葉を示されることはあるでしょうが、しかし、それを教理にまで拡張し、公共性を持たせることはできません。
神は個人を教えるために自由に御言葉を利用なさいます。
ある危険な道に入っていきそうな時に、突然「見よ!」というパウロの手紙の中の呼びかけが心に響くことがあるかもしれません。
私は、浅い眠りの時に、非常に大きな声が心に響いてきたことが何度かあります。
たしかに聖書の御言葉なのですが、それはその文脈とは関係ない場合があります。
このような形の示しを否定することはできませんが、しかし、私たちは聖書をそのように文脈を離れて理解してよいという結論を導き出してはならないと思います。
なぜならば、聖書は著者である神の「一定の」意図のもとに記された「公的」文書であり、公共性を持つものです。しかし、個人的に特殊的に示される場合の御言葉は、被造物を自由に用いて表現される神の自己啓示の道具である場合があるからです。
さて、「与えられた御言葉」については、ある教理として持つべきは、文脈にそって解釈されたものであるべきです。なぜならば、文脈と無関係に解釈された御言葉とはもはや御言葉ではないからです。
たとえば、クリスチャンと仏教徒とイスラム教徒とヒューマニストを一人ずつ部屋に集めてある実験をします。
彼らにそれぞれ一冊ずつ聖書を渡して、聖書の一章を単語ごとに小さな紙片に書き写させて、その紙片を空中に放り投げさせます。
そして、それらを使って自分が言いたい内容の文章をまとめさせるならば、それぞれは自分の言いたいことを見事に表現できるでしょう。
御言葉は文脈から離れて使えばなんでもいえるわけですから、「文脈を離れた御言葉は御言葉ではない」のです
2004年4月10日
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