自由と秩序の両立


自由主義と全体主義は、2つの対極である。

自由を究極的に追求すると無秩序になる。

無秩序を嫌い秩序を求め、それを徹底化すると全体主義になる。

人類は、この両極を揺れ動いてきた。

両者を調和させることはできなかった。

それは、個と全体を調和させる思想的基礎がないからである。

この世界は、神によって創造された。だから、この世界を正しく運営するためには、聖書を用いる必要がある。

聖書の神は、三位一体の神である。

父・子・聖霊は、存在論的に3人であるが、契約により一人である。

この神の存在の様式こそが、我々人類の社会の様式の模範である。

夫婦は、存在論的に2人であるが、契約によって一人である。

会社や国は、存在論的に多数であるが、契約によって一人である。

我々人類は、神のもとにあって、個であると同時に多である。

人類は、神の前に、聖書の法によって自由を与えられていると同時に、拘束されている。

我々は、神の前に自由人であると同時に、僕である。

聖書の規範や法は、我々を無意味な法律・掟・慣習から解放する。

しかし、同時に、我々を拘束する。

十戒をはじめとする律法は、自由の法である。モーセ律法は、エジプトから逃れてきた人々に与えられた自由人の法である。

現代人は、法や掟と聞くと、隷属を連想する傾向がある。

ヒューマニズムの影響である。

本当の自由は、法なしでは存在しない。

交通規則がなければ、我々は自由に車を運転できない。

信号機による統制がなければ、事故につぐ事故で安心して運転できない。

これまで人類は、人間が作った法でやっていけると考えてきた。

しかし、人間存在は、一位一体であり、自由と秩序を調和させる原理を持たない。

聖書に帰る以外には解決はない。

人間は超自然的な規範を創造者から与えられることなしには、社会を秩序立てることができない。

 

 

2009年2月28日

 

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