律法はいのちを与えないか?5


<LUKE様>

これについては別スレの「エクレシアとイスラエル」で、契約のあり方が<旧約=双務契約>、<新約=片務契約>という違いがあると理解しています。ここにも転載しておきます:

-----転載------
旧約は要するに両当事者、つまり神(甲)と人(乙)があるわけです。しかもこの間に絶望的な溝がある。乙が甲の命じるところを行なえば、甲は乙を祝福できるが、行なえなければ呪いを刈り取る。これが双務契約です。

 旧約のシェーマ:神 ⇔ 人 (力がないために失敗)
          (甲) (乙)

新約では神の第二格位である御子が人になることにより、神は甲と乙の両当事者をキリストにあって引き受けることができるようになった。御子は御父に対する犠牲の供え物として代価を払い、我々の債務を消して下さった。同時に律法をまっとうし、完全な義を成就した。

          (甲)    (甲かつ乙)
 新約のシェーマ:父 ⇔ 御子=神−人 (成就)
            完全        |   |
                     私たち←効力
                       ↑
                      御霊の力(いのちの法則)

信仰によってキリストの死と復活に結合され、キリストの内に置かれた私たちは、この法的効果を継承できるわけです。これが片務契約の意味です。ですから神が人になること、すなわち両当事者を引き受けることが、新契約を確立する本質的な要素なのです。よって神が三にして一でないと救い自体が成立しないのです。

では現在の私たちの責任はと言えば、古い自分はすでにキリストと共に死に、共に復活したことを認め、御霊に従ってその霊的リアリティの中に留まり、歩むこととなるわけです。これは内にあるいのちの力といのちの御霊の法則によるわけです。
----転載終わり----

<tomi>

旧約の契約は、LUKEさんの言い方によれば、片務契約なのです。

すでに申し上げましたが、モーセ律法は、「恵みの契約の中にいる人々に与えられた法」なのです。

それを守れなければ永遠の生命を失い、呪いを蒙るというようなものではなかった。

民には、「罪の赦し」が与えられており、動物を犠牲にすることによって罪が赦された。

これは、現在のクリスチャンとまったく同じです。

旧約聖書の民も新約聖書の民も同じ一つの民であり、旧約聖書の契約も新約聖書の契約も一つなのです。

犠牲が動物とキリストで違うというだけです。

では、旧約聖書においてなぜ民が裁かれているのか?という疑問が起こるかもしれません。

それは、「神の民としての清めの訓練」であるか、もしくは、「契約からの追放」です。

契約追放について言えば、旧約において殺人者は、契約の民から「断ち切られ」ました。すなわち、恵みの相続人の地位を失った。

新約聖書においても、神は「悔い改めない罪人」を教会から追い出される。

教会が追い出さない場合、その人を裁かれ、病気にしたり死なせたりする。

「みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。
そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。」(1コリント11・29-30)

 

 

2005年10月12日

 

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