創造科学以外はすべて罪である


1年くらい前に、古舘氏の司会、養老猛教授の解説で「脳」に関する番組が放映された。

その中において、古舘氏が「人間の脳を見ると、この仕組みは誰かによって作られたと見るほうが合理的ではないでしょうか。」という内容のことを尋ねると、養老氏が「それは、科学の範囲を越えている。神の存在、創造の有無は検証不能なので科学の対象にならない」と答えた。

たしかに、神は検証の対象ではない。聖書もそのように教えている。神を試してはならない。神が人間を試すのであって、人間が神を試してはならない。

科学者は、「だから神の存在、創造については、判断を保留すべきだ」と述べる。

しかし、これは、不可能である。

進化論によって生物の成立を説明しようとすると、「不可避的に」無神論の前提で話をすることになるから。

今の科学が神を持ち出せず、創造を持ち出せず、「最初の生命は神の創造による」と言ってはならないとすれば、

「最初の生命は偶然に誕生した」と言う以外にない。

ここで、科学者は「創造については判断を保留する」という大原則を破っているのだ。

つまり、無神論の前提に立って論を進めているのだ。

これこそが、現代科学の根本的な神話である。

「我々は、宗教も神も否定しない。ただそれらについては判断を保留し、決着をつけようとしていないだけだ」というのは神話の語り部の言葉なのだ。

世界の成り立ち、生物の成り立ちを、神の創造を前提とせずに論じることは、すなわち、無神論の前提で論じることに等しい。

立派に判断を下している。

彼らは「我々は宗教について判断を留保している客観的な中立の立場に立っているだけですよ」と言いながら、「創造はなかった」という前提で論を進めているのである。

クリスチャンはこのようなトリックに騙されてはならない。

彼らはけっして中立ではなく、宗教者であることを見抜かねばならない。

彼らの発言をまにうけて「そうだなあ。我々も偏った立場に立たず、中立を大切にしなければ・・・」なんてお人よしのことを言ってはだめだ。

無神論の前提は、けっして「中立」ではない!

それは、「不信仰」なのだ。

神は不在かもしれない、神の創造はなかったかもしれない、などといって、「神と創造の可能性」を一瞬でも疑ったその瞬間に人間は罪を犯したのだ。

神の名は、アルファでありオメガである。

神の名は、「有りて在る者」、「存在する者」である。

創造以前に神以外のものは存在しなかった。基準も法も何もかも、無から創造された。

あらゆる物が「神の被造物」であるならば、まるで神の被造物ではないかのような顔をして、物を語ることは罪である。

まるで神の被造物ではないかのように我々の理性を用いるべきではない。

神と創造を前提とせずに行われるすべての活動は罪であり、どんなに「態度保留しており、神や創造を否定しているわけではありません」と科学者が述べたとしてもそんな言葉に騙されてはならない。

 

 

2004年12月8日

 

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